山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

「遍路」見てきた。

紀伊國屋ホールにて、劇団本谷有希子の「遍路」を見てきた。

ずいぶんギリギリで席をとったせいで、最前列。いやあ、初めての経験だった。役者の熱い芝居を間近で見られる特典はあるけど、舞台全体を俯瞰できないのはちょっとつらかった。映画でも後ろのほうで見るのが好きだから。

内容は相変わらず、高水準で飛ばしまくりの本谷さんである。主人公は、女優になるといって東京へ行ったけれど、夢破れて戻ってくる28歳の女子だ。彼女が正月に四国(たぶん)にある親戚の家に逗留、同じく、四国八十八箇所をまわるお遍路さんをやっている父親と合流したことで、それまで家族と親戚を取り巻いていた闇が一気に噴出する。

女優になる夢を諦めた28歳の女子からしてみると、田舎の暮らしは退屈極まりない。が、自分もそれに慣れていくしかない。敗北者の気持ちを抱えながら、他に行く場もない。田舎ではすでに、詩人を目指して上京したけれど、すごすごと戻ってきたいとこの男子がいる。こいつは働かないまま、田舎で腐っている。その妹は、兄が先に東京に出てしかも失敗して戻ってきたために、最初から東京行きの夢は破れ、田舎の地味な事務員をしながら、ぼんやり暮らしている。このような設定は、充分面白いけど、でも、一番面白かったのは、むしろ、女優を断念する女子の父親だ。

公務員かなにかの設定で、年に一度お遍路さんをする以外は、非常に地味な人生を生きている。…かに見せて、このおっさんも充分、闇を抱えているのだ。自分を振り返るエッセイを書いていたり、36歳のときには、胃腸の調子が悪いことをきっかけにキレまくり、家庭内暴力をふるった過去を持つ。そして、今でも、娘が戻ってきたなら、代わりに自分が東京に行く…などときてれつなことを言い出すのである。

だがしかし。「夢を諦めない」という考え方の残酷さ。そして、「なにか」にならないといけない残酷さ。けれども当然、誰もが女優になれないし、多くのひとは平凡な暮らしをすることになる。その時に、「夢を諦めないで」と言われてもきついと言えばきつい。

がしかし。ホントにそんな風に考えているひとはいるんだろうか。テレビの仕事のあと、書き物の仕事をしているせいで、もともと友達も少ないので、いわゆる、普通のOLさんや主婦の友達がいない。いや、数名いるけど、彼女たちを見ていて、それが(主婦やOLが)、なにかを諦めた結果のようには見えない。好きでやってると思うし、そこに迷いも苦悩もないように思う。

「退屈なんじゃないか」と勝手に想像してしまうのは、女優になりそこなった主人公のほうであるように、そこにいるひとたちは、そこにいることにやっぱり満足しているのだと思う。

三谷幸喜氏の「有頂天ホテル」にも似たような設定が出てくる。(話飛ぶけどさ)。役所広司さん演じるホテルの支配人も、「なにか」になりたかったひとだ。(役者だったか、コンサートマスターだったか忘れてしまった)。で、この支配人が勤めるホテルに別れた妻がやってくることで騒動が持ち上がる。自分が夢を諦めたことを元妻に知られたくないというのモチーフにある。

わかる。たいへんよくわかる。それは自分もずっと「なにか」になりたかったほうのひとだからだ。(まあ、作家とか映画監督とかね)。でもさー。普通はそんなに「なにか」になりたがったりせず、「諦めた」からホテルの支配人になってるわけじゃないように、最近思うのだ。諦めたくないひとは、だってずっとやってるもん。(=わたしだ)。

作り手はもちろん、「なにか」=具体的に言えば、劇作家なり演出家になりになったひとだから、「そうじゃない人生」はとても耐えられないと考えているんだろう。けどさ、案外、そうじゃないのではないかなーと思うのだ。

えっと、そういうことをですね、「遍路」を見ながらしみじみ考えました。28歳でちょっと売れないからって別に女優やめなくていいじゃん。そんなのいくらでも女優で生きていく道あるだろうし、芝居が好きなら生涯バイトして女優やればいいじゃん…と思ってしまうよね。(いや、そういうお話じゃないんだけどさ)

で、もっと深い闇とは、やはり、年に一度お遍路に行く、真面目な公務員のお父さんなんだよね。このひとの心の底にこそ、ドラマがあるような気がした。娘のためにキレたりして。

そんなわけで、最前列で見た「遍路」。今年は本谷さんの芝居3本見たけど、ベストはやはり、「遭難」だと思うのでした。