山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

小説の自由、テレビの進化。

昨日の朝日新聞に(たぶん)、保坂和志さんが、カフカの「変身」について書いていて、そのなかで、「小説は比喩じゃない」という一文があった。そうだよなーと思う。小説を読む楽しみって、読んでいる最中にあって、読み終わった途端にあらすじを忘れてもいいし、そもそも筋書きなど、どうあってもいい。しみじみ共感する。なにが語られたかには、ほとんど興味がなく、どんなふうに語られたかだけにかかっている。

が、世界はそういう風には動いていなくて、ハリウッド映画の企画書の基本のように、「ひとことでいうとどういう話?」って質問にうまく答えられない作品は、なかなか世の中に受け入れられにくい。「最愛のひとが難病にかかって死ぬまでのお話」とか「人類の生存をかけて、ひとりの少女が、宇宙の悪と闘う話」とか、「11日後に自殺すると決めた男の死ぬまでの日々」とかね。


と言いつつ、じょじょにやっぱり変わっているかもしれない。以前参加した「時効警察」とかも、基本は殺人事件の調査であるけど、その際、ミステリーとかトリックは結構「どうでもいいもの」として扱われていた。それって、だって、もう、充分どっかでやられたし。で、視聴者はどこを見て、喜んでいたかといえば、実際の筋にほとんど関係ないような「細部」である。細部のおもしろさが全体のあらすじやトリックなんかを凌駕するんだよなー。

これって、実は、保坂和志さんが言うところの「小説は比喩じゃない」に匹敵するのではないかと思うのだ。原因と結果があって事件がある。なんてことはもう、どうでもいいじゃん?って感じ。もうさー、過去にいじめられたかと、トラウマがあったとか、ウザイよという気分である。そして、すでに、テレビの世界でも、トラウマ語りはもういいよ…という気分はある。なんか、20世紀って、ものごとの原因を求めすぎた時代だったのではないのかしら。

ということで、コツコツ小説書いています。と言いつつ、今は、ちょっと、舞台モノをやらんといけないので、小休止です。最初は、「うわ、このギリギリの時に、舞台書くのってどうよ」と思っていましたが、書き始めると結構楽しくて、楽しんでしまっております。うひ。このようにして、今まで通り、なんでもかんでもやっていくのだなー。

比喩じゃない小説、書きたい。

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