山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

夢落ちなのか。

昨日とはうってかわって、今日は、キム・ギドク監督の「うつせみ」を見た。

キム・ギドクはこのほか、「悪い男」「サマリア」と「春夏秋冬そして春」の合計4本を見ている。はっきりと、わりと嫌いな監督だ。特に「悪い男」と「春夏秋冬そして春」は嫌い。「サマリア」もあんまりだった。なのに、「うつせみ」を見たのは、仕事上の必要があって…でした。

ううむ。これもダメでした。始まり方は少し面白かったけど、途中から登場人物の誰にも感情移入できないし、ストーリーの展開にも興味が持てなかった。ラストでいきなり、「自分たちの生きている世界のどこまでが現実でどこまでが夢かわからない…」(のようなこと)を言われてもなー。そんなセリフで逃げられても、困る。

ストーリーをざっと説明すると、主人公の男は、主が旅行中の家を探してはこっそり入り込み、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、洗濯したりして暮らしている。お金を盗んだりはせず、壊れている電化製品があれば、直しておいたりする。そんな毎日のなか、ある家に忍び込むと、夫から暴力をふるわれて、傷つき、部屋で体をまるめている女がいた。夫がもどって、再び彼女に暴力をふるおうとするが、主人公はそれを阻止し、夫をゴルフボールで痛めつけて逃げる。すると、暴力をふるわれていた女がついてくる。この間、この人妻も主人公の男もひとことも言葉を交わさない。というか、映画の間中、ひとこともしゃべらない。

逃げたふたりは、空き巣狙いで生活をしていく。ある日、ある部屋にしのび混むとそこでは老人が死んでいた。死んだ老人を手厚く葬って、その部屋で暮らしていると、亡くなった老人の息子がやってきて、ふたり(主人公の男と一緒に逃げてる人妻)は警察に捕まる。女は誘拐されていたことになるが、男は刑務所に入る。女は暴力をふるう夫の元に戻る。服役中の男は、独房のなかで、「自分の気配を消す技術」を身につけ、出所する。

男は、人妻の暮らす家に忍び込むが、決して暴力夫から気づかれることなく、人妻と三人で暮らす。
で、さっき、書いた最後のナレーション。「どこまでが夢かわからない…」。この映画の間中、主人公の男はひとことも口を聞かない。口のきけないひと…というわけでもないらしい。

こういう映画にリアリティを持ち込んでもしかたないと思いますが、人妻が暴力夫から逃げないのも不思議だし、人の家に忍び込む男を好きになるのも不思議だし、この男、途中で罪なきひとを殺しているんだけど、それについては、スルーしてるし。

「夢落ち」という落ちの作り方がある。あり得ない出来事をいろいろ見せておいて、全部夢でした…とやる方法。特異な設定を考えることは割と誰にでもできるけれど、それを物語として収束させていくのはすごく難しい。そういうときに、「夢でした」とやるのは、安易な方法だから普通は使わない。

が、この「うつせみ」って案外、夢落ちなのかもしれない。まさか、今時、誰もやらないようなストレートな夢落ち。暴力をふるわれていた人妻の見た夢。ある日、そんな男が忍び込んでくれて、自分を連れ出してくれないかしら。あるいは、夫にばれないように一緒に暮らしてくれないかしら。そういう種類の夢。実際、暴力男から逃げられないひとは、そういう夢を見ているかもしれない。

あるいは、男の夢。知らない家に忍び込んだら、そこに助けを求めるキレイな女がいて、二人の逃避行が始まったらいいな…とか。

これは、「悪い男」という映画の続編にも見える。(「悪い男」のあらすじは、一目惚れした女子大生を誘拐し、娼婦にして、彼女の上がりで暮らしていく男の話だ。女子大生は最初は抵抗するが、次第に娼婦の生活に慣れていき、逃げることもない。これをもって「究極の愛」と解釈しているひともいた。全然わからなかった…)。

どっちにしても、ダメだ。マッチョ幻想炸裂だなーと思ってしまう。世界中でどんどん女性が自由になり、強くなっているから、「揺り戻し」が来ているんだなと思ってしまう。しかも、ヨーロッパやアメリカでは、もはやこの手の映画は作れない。(女たちに怒られるからね)。そこで、今でも男尊女卑でも通用するアジアのこの手の映画が、ヨーロッパの映画祭で受けるんじゃないかなー。と、そこまで勘ぐってしまう。

このへんにしておこう。他人様の映画をあしざまに言えるほどの自分か…ってことですよね。それにしても。

早く、「Lの世界」の続きが見たいです。

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