山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「食べて、祈って、恋をして」

昨日は、編集のあと、品川で、映画「食べて、祈って、恋をして」を見た。

ジュリア・ロバーツが主演の、夏くらいに話題になった作品である。

なんとな~く、うさん臭い感じもしつつ、でも、見たいな~と思っていた。なので、ギリギリ、品川でやっていたので、でかけた。

なんというか、最初に感じたうさん臭さはそのままだったんだけど、でも、偉そうに言わせてもらえば、きっとこういう映画は必要だし、もっと撮られるべきだと思った。

原作は、エリザベス・ギルバートというNY在住の小説家のベストセラー本。作家として活躍していたけど、離婚、失恋を経て、イタリア、インド、バリ島へと旅するお話だ。

冒頭から過激なナレーションで始まり、あーこの原作、読みたいなーと思った。そして、同時に、たぶん、原作を越えられないだろうなあとも思った。つまり、書き物として、饒舌で面白そうなので、それを映像にするのは、随分とムリがあるだろうと思ったからだ。

予感は的中した。

なんというか、知的な女のハーレクインロマンスっぽいつくりになってしまっている。これと同種の作品では、「ブリジット・ジョーンズの日記」があるけど、映画も傑作になったのは、主演のレニー・ゼルウィガーの功績も大きいけど、やっぱり監督も優秀だったのかもしれない。

この「食べて、祈って、恋をして」の監督は、ライアン・マーフィーというひとで、全然知らなかったけど、前作は、「ハサミを持ってつっぱしれ!」なんですねー。

これ、知らないひとは知らないと思うけど、これもベストセラーを原作とした作品だ。この原作小説「ハサミを持ってつっぱしれ」は、すっごい大好きな小説。とても面白いし、よく書けてるし、示唆的だし、とにかく、気に入っている。

だから、映画になったと知り、絶対見にいく!と思っていたら、日本では公開されず、ひっそり、DVD発売されたのみだった。で、見たけど、あんまりよいできではなかった。

そして!

この「ハサミ」も「食べても」もプロデューサーは、あのブラッド・ピットなんですよー。つまり、ブラピさんって原作を読む力はあるんじゃないかなあー。でも、映画にする力は「?」なのか。

「食べて~」の話に戻ると、まず、映画の尺におさめるには、難しいってこと。テレビドラマだったらいいかもしれないけど。イタリア、インド、バリと旅していくわけだけど、それぞれに数ヶ月は滞在し、いろんなものに出会って、原作では(たぶん)少しずつ、主人公は変わっていくのだろう。

けど、それを二時間におさめようとすると、すっごいムリがあるというか、時間が早すぎる。

そして、この主人公、むかつくひとにとってはむかつくんじゃないかな-。

だって、NYで作家という仕事を持ち、いい旦那もいたのに、特に理由なく、離婚しちゃう。旦那が暴力を振るうとか、借金まみれとか、浮気したとか、そういう決定打はない。なんとな~く、この人じゃない…みたいなことで離婚しちゃう。

さらに、離婚調停中に、すぐにイケメンの年下俳優の恋人ができる。この男も熱心に愛してくれるというのに、「やっぱりこいつじゃない」と思って、旅に出るのだ。

イタリアでは、特に恋人ができた風ではないけど、イタリア語会話の先生(男)といい雰囲気になったり、グループ交際したりと、とても幸せそう。インドに渡っても、なにかと彼女に話しかけてくる男(バツイチで中年だけど)もいるし、バリでは、ばっちり、運命の男(?)に出会っちゃう。

とにかく、世界中でモテモテです。

実は同じ日、「マザーウォーター」とどっちを見ようか迷ったんだけど、「マザー」は当分やっていそうなので、「食べて」を選んだ。

「マザーウォーター」は「かもめ食堂」以来の同じPによる作品だけど、この一連の作品もこれまで映画界になかったタイプの映画で、「撮られるべきもの」だったと私は思っている。

それは、「それまで描かれたことのなかった女たち」が主人公になっているから。

映画って男のひとたちの作ったメディアなので、これまでの歴史のなかで、映画に出てくる女っていうのは、なにかしら、「男とつながっている」女でしかなかった。

誰かの恋人、母、娘、愛人、などなど。男の視点が決まったあとにしか、存在できない女しか、映画には登場できなかったんだよね。

けど、「かもめ」を初めとする一連の作品の登場人物は、男と切れている女たちの物語だ。当たり前だけど、男と特別の関係がない女だってこの世にたくさんいて、普通に生きているわけです。

でも、それを描いた作品が映画ではほとんどなかったんだよね。その意味で、すっごい意義のあることだと思う。

そして、そこに登場する女たちは、あんまり「もてそう」じゃない。でも、「もて」という世界観を離れたところで生きること、「もて」という基準を捨てた世界を描くこと。それはとても新鮮だし、必要なことだと思った。

一方、「食べて」はさ、もちろん、ある意味これまであまり描かれてこなかった、女の自己発見ものですけど、結局、「男かよ!」結局、「恋」かよ!って気分にはなりました。

要するに、世界を旅しても、もっともほしかったのは、恋であり、男であったと。男を探すために、世界に旅に出たというお話。

ううむ。

自分の映画「すべては海になる」のなかで、小島小鳥という少女が、世界中を旅して、世界中の男と寝るお話を作っておりますが、それは、「男を探して旅にでる」ということをパロディにしているつもりだった。

そんなわけで、いろんなことを考えさせられた作品でした。でも、見て良かったと思う。いい作品、好きな作品じゃないけど、考えることいっぱいあったし、すこし、気持ちが楽になった。

そして、原作を購入しました…笑。

今日は、少し、気分がいいです。

なぜなら、今日から、「喪の仕事」が始まったから。

「喪の仕事」とは、ミニの死に関わったひとたちに順番に会いに行くことをいいます。獣医さんや「魔法の水」を売っているひとや、とにかく、ここ一ヶ月、ミニが亡くなるまでの間に関わりのあった人たちにもう一度会いに行き、ミニの死について話をする…という仕事です。

書くとか番組にするとか以前に、とにかく、自分で会って、話を聞きたい。そのシンプルな欲望に従おうと思っている。だから、それは、私の「喪の仕事」。

80年代に、君塚匠さんという監督が、「喪の仕事」という映画を撮った。これも、友人の死の謎を追いながら、自分が友達の死を受け入れるまでの物語だったように思う。

そのモチーフをいただき、私も「喪の仕事」をしていきます。