山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

20年後の結末。

懐かしいひとに立て続けに会う一日だった。

編集室に行くと、いきなり、20年くらいの知り合いの放送作家に会う。しばし、近況などを立ち話。キャロルキングの来日コンサートに行った話を聞く。私も行きたかった。

さらに同じ編集室の廊下で、最初の会社で同期だった女子に会う。近況報告。「お互い、年取ったね~」とか、仕事の内容の話。さらに、同じく廊下で、同じくテレビのディレクターの知人に会う。この時点で3名だ。

夕方、大学のときの友達で、20年以上NYに住んでいる友達が来日中で、日本の編集システムを見にやってきた。編集室を見せてあげたりする。マシンは同じでも微妙にアメリカと日本では、ちがうところもあるようだ。その後、しばし、旧交を温める。これで4人目。なんとまあ、たくさんの知り合いに会う一日だったことよ。

今日で、テレビの編集がほとんど終わる。あとは、予定通りつなぐだけ。ほっ。

夜、自宅にて、DVDで「四ヶ月と三週間と二日」という07年のカンヌグランプリの映画を見る。ドキュメンタリーのように、手持ちノーライトで淡々と一日の出来事が語られていた。最初は、ちょっと退屈な感じがしたけれど…それは、カットの早い劇映画に慣れてしまっているからだけど…見ているうちにどんどん引き込まれた。1987年のルーマニアのお話なので、時代的な不自由さはあるけれども、主人公のやるせない心情は時代も国も超えるなーと思った。

主人公の女子大生は、ルームメイトが妊娠したため、その中絶を手伝う。当時、ルーマニアは中絶が非合法のため、闇医者に頼むしかない。ルームメイトのために中絶をするホテルを予約し、お金を集め、ボーイフレンドとの約束に遅れても、彼女のために動く。闇医者が考えられないくらいイヤな男で…ある種のイヤなオヤジの典型で…でも彼女たちは中絶してもらうために、彼に従うしかない。

このオヤジのいやらしさは、多分、時代も国境も越え、今の日本でも似たようなひとを何人も上げることができる。実際、知り合いで似たようなひとを見たことがある。が、まあ、オヤジとはそんなものであるから、今更驚かなかった。むっとするけど。

一方で、中絶する女子にもっとも腹がたった。

自分の不注意のために、友達を巻き込んでいるというのに、「ありがとう」も「ごめん」もない。術後は熟睡して、心配する友達からの電話にもでないし、しれっとしてレストランへでかけたりもする。わがまま放題。いるいる、こういうコ。彼女のしれっとした感じもまた、時代と国境を越える。

ふと、彼女のその後の人生を思う。この事件をひきずることなく、ノー天気に生きていきそうな気がする。

彼女を手伝ったルームメイトのほうが、心の傷を負いそうだ。そういうもんだろうけど。がしかし、私はすでに、人生の結末を知っている。っていうか、長く生きて、わかったことがあるような気がする。

この「しれっとしてうまく生きていきそうな中絶したコ」は、この中絶が原因で子供を持つことができないとか、いい加減な性格が災いするとかで、結局、それほど幸せにはなれない。わりと悲惨な境遇を迎える。そして、それを愚痴る晩年が待っている。

一方、中絶を手伝った主人公は、一時はそれがトラウマになり、不幸な時期を過ごすかもしれない。が、彼女はきっと自分の力でトラウマを乗り越え、それがますますを彼女を魅力的に、そして、強くさせ、仕事も愛情も手に入れることができるだろう。すでに、この映画の描く時代、87年から20年もたっている。主人公は、43歳になっている。たぶん、充実した人生を送ってきた幸せな43歳になっているはず。

映画の中の彼女に、言いたかった。「大丈夫、時代は少しはよくなり、あなたは幸せになれる」

これが、カンヌグランプリか…。ううむ。

…とそんなことを考えた。偶然にも、今日は20年くらい前から知っている友達に4人も立て続けにあったから。

そんな雨の夜。