山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「わたし 出すわ」

今日は朝からあっちこっちと忙しかったのだが、案外、夕方に時間があき、渋谷で、森田芳光監督の「わたし、出すわ」を見た。

実は複雑な心境であった。以前、朝日新聞の映画評を読んだ時には、あまりほめていないな…という印象があった。新聞なのにずいぶん、過激だなあと思ったことを覚えていた。一方で、深夜の料理番組に宣伝のために小雪さんが出ているのを見ると、感じのいいひとで、なおかつ、主演女優本人が説明する様子が、作品を愛しているようで、良かったのだ。なので、期待半分、だめかなという気持ち半分ながら、自分の目を確かめたくて出かけた。

ふうむ。「誰にも似ていない映画」だった。ひとことでくくるのがとても難しい。そして、少なくとも、これまでは一度も映画のテーマになっていなかった内容だった。ヒロインの小雪演じる「マヤ」という女性は、過去の映画で、こういうタイプの女性がヒロインであるものは、少なくとも日本映画で探すのはかなり難しいと思う。

しみじみ、森田監督というひとは、「見たこともない作品」を作るひとだ。そもそもデビュー作の「の・ようなもの」はタイトルからして斬新だったし、内容もあらゆる意味で新しかった。その延長線上で見ていくと、わかりやすいドラマツルギーからはずいぶんはずれているけれど、森田節健在というところだ。非常に不思議な、一方で、「今」をよく表している作品であった。

ざっとあらすじを書くと、小雪演じるマヤは、多分、株の取引で莫大なお金を得たのだろう。母親が昏睡状態で寝ている地元・函館に戻ってくる。そこで、あまったお金を高校時代の友人に次々に配っていく…というお話。配られる相手は、男性は、世界の路面電車巡りが夢の、函館の路面電車の運転手、海洋学の研究者、プロのマラソンランナー、の三人。女性は、箱庭を愛する夫とそこそこの生活を楽しむ主婦、ホステス出身ながらも玉の輿に乗った美人の二名。それぞれに夢を実現するために…といって、大金をあげる。お金をもらったそれぞれは、お金を手にしたことにより、人生が変わっていく、良くも悪くも。狂ってしまう人もいる。狂わないひともいるし、たいしてほしがらないひともいた…。

普通の収入のひとというのは、自分もそうだけど、「大金が入ったら、……したいな-」とはかない夢を抱くものである。漠然と。しかし、現実に入るとしたら、どう使うか…にかなり人間性が出てしまう。この映画はそれを描こうとしたのだと思う。さらに、働かずして得たお金に対する態度についても語っているように思う。

主人公マヤの気持ちがいまひとつわかりかねたけれど、小雪さんという女優のあまりに欲のなさそうな、さばさばした感じ、着ている服、住んでいる部屋、彼女の態度のひとつひとつに「欲の少なさ」について一貫しており、自分には想像できないけど、魅力的ではあった。また、小池栄子さん演じる、満足を知っている主婦もちょっと立派すぎるかな…と思ったけど、映画全体は、次はどうなるのだろうという気持ちで引っ張られてみることができた。いつか知り合いの映画監督が、「映画とは、次はどうなるかだ!」と豪語していたのを思い出した。この作品は、なかなか結末が予想しにくいのだ。

最近の映画は、わかりやすいものが多い。というか、見に行く前から結末がわかっている場合が多い。そして、その事前にわかっていたあらすじを追いかけ、用意された悲しみや喜びにひたって、終わる。映画を見る前と見た後でなにも変わらないような。その瞬間は悲しくて泣いても、その涙はこれまでにも何度も流したことにある、「慣れた涙」であって、自分を変える涙ではない。

そういう意味で、この映画は誰にも似ていない。かつて蓮實重彦さんが、「小説とは誰にも似ていない鬼子のようなものだ」と仰っていたが、映画もそうあってほしい気持ちがあり、この映画も鬼子のようなものであった。もっとこういう、ちょっとヘンな作品が撮られたらいいのに。まあ、いつの世もマーケットを席巻するのは、わかりやすい物語だもんね。劇場がすいているのが悲しかったな。しかし、観客は、非常にばらばらな世代の癖のありそうな客ばかりで、ちょっとにんまりした。

なんだか、すごい雨の夜だ。