山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

舞台「新年工場見学2010」



今日は、午後から、劇団「五反田団」の「新年工場見学会2010」を見に行きました。

五反田団は、昨年秋、「生きているものはいないのか」を初めて見たので、経歴の浅い観客です。思えば、ポツドールのファンになる→映画に岩瀬亮氏に出てもらう→岩瀬さんが出ていたので、劇団「ハイバイ」を見に行く→「ハイバイ」のファンになる→次に行った「ハイバイ」の公演のチラシに五反田団のチラシが入っていたので、見に行く…という、循環によって、たどり着いたわけでした。

劇団名と主催者名は、岸田戯曲賞とか、小説も書く劇作家として、うっすら知っていたのですが、なんとなーく行くきっかけを逸しておりました。しかし、たどり着くときはたどり着くもんだなー。で、今日の舞台。お正月らしいゆるゆる気味の公演でした。途中に休憩があったり、ホットワインが配られたり、獅子舞なども出ました。そして、獅子舞にお餅いただきました。めでたいなー。

途中に、「ハイバイ」の芝居もあって、やっぱり、自分、ハイバイ、好きだと思いました。見ている間中、なんか楽しくって。純粋一観客になってしまう楽しさ。あと、たぶん、自分は絶対書けない方向の芝居だと思うからかもしれない。考え方の軸みたいなものが、自分と重なるところがない。ないけど、好き、面白い。

五反団のほうが、理性で作っているような気がして、頭のいい演劇、批評性のある演劇って気がする。そもそも、今日の舞台も、どこかメタ演劇っぽいし。書き手の知性を感じます。その理屈っぽい感じは、自分にはとても理解できる。頑張れば、自分も書けるかなーという気分になる(おこがましくてすみません)。

一方、ハイバイのほうは、知性を感じないと言ったら失礼だけど、それは褒め言葉で、もしかして、原初の演劇ってこういうものだったんじゃないの?という気持ちにさせる、原点のようなものを感じました。

今日、やっていたのは、劇団員のひとり、金子岳憲さんの童貞時代のお話なんだけど、(事実が8割とのこと)、つまり、「あいつの青春時代ってこんな感じだったらしい」というのを、芝居で再現しているようなもの。それはつまり芝居なのか?ってことだけど、ハイバイの岩井秀人さんの芝居って、再現ドキュメントのような作品が多く、それって、もしかして、基本?原点回帰なんじゃないかと思うのだ。

こんなことがあった!というのが、創作のひとつのスタートラインではある。そのあとから、「こうだったらよかったのに」とか「こんなんだったら、面白いんじゃない?」という方向に広がっていくと思うけど、日記のような伝記のような舞台なんだなー。そのシンプルさが好きでした。楽しかった。金子さんという俳優さんもなんともいえない魅力があるし。

俳優さんの魅力というのは不思議だなー。ハンサムとか美人とかじゃないんだよなー。たたずまいとしかいいようのない、なんとも言えない力が舞台の上にあるんだよなー。特に今日は、最前列で見ることができたので、非常に楽しかった。一体感があって。

そんな魅力的な舞台体験をして帰宅すると、仕事のスタッフがちょっとした作品のプレビューのために家に来ることになった。簡単な食事を用意して、プレビュー。短い作品だけど、これは、自分が批評する立場のもの。改良点などを話して、終わる。その後、ご飯を食べながら、「映像演出とは?」って話になる。けど、話していても、自分でわからなくなる。

というのは、テレビなどの商業的な仕事において、映像演出の自由ってどこまであるんだろうっていつも思うからだ。もちろん、基本ができていないとだめだけど、それでも、担当する番組によって、テイストはあるし、それを決めているのはたいてい局のプロデューサーである。その人物の好みにある程度合わせないといけないし、それを読み取るのもひとつの仕事だったりする。するけど、それって演出の領域なんだろうか。あるいは、プレゼンのうまさ。

舞台や一部の映画だと、そういうものと無縁でいることができる。今日の芝居みたいに。多分。けど、「仕事」となった途端に、そんなに自由じゃなくなるかならなー。なので、「世間の泳ぎ方」なら、話せるけど、それは「映像演出」とは違うんじゃないかなーと思ったりもする。

毎回、毎回、舞台を見に行く度にその自由さについて、考えてしまうのだった。直されない自由。映画もね、自分の撮ったくらいのサイズだと、自由でした。それが良かったんだー。小説も自由です。けど、結局、今のところ、お金稼ぐのは、テレビなんだよなー。自由でお金ももらえたら、最高ですが、なかなかそうはゆきませんでした。

孤高のひとになる勇気もなく。あー。