山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

自由でいいんだよね。

昨日は、超久しぶりに、自主映画を見ました。

PFFアワードに、知り合いの少年が入選を果たしたので、見にいったのでした。森岡龍君の「硬い恋人」というのを見ました。16ミリフィルムで撮影して、デジタルにプリントしたものの上映。

暗部がかなり暗くなってましたが、監督曰く、基本的に、暗いのが好きだとのことでした。

二人の男の物語。ひとりはわがままで一方的で、もうひとりは、彼の子分扱いのような関係。一見、友情が成り立っているようにみえるけど、子分側にしてみれば、そんなに楽しくないというか、ギリギリの状態…のように見えた。
その二人の関係が、わがままなほうに好きな女子ができたことで、さらに距離があく…といったあらすじです。

しかし、あらすじ通りに進みながらも、物語の流れに関係なさそうなエピソードがいろいろ出てきて、いろんな意味で新鮮でした。

ややもすると、なにも映ってないように見えるほど、暗い部分を撮すことやら、ストーリーがストレートじゃないことなど、日頃、テレビや、普通の映画を見慣れていると、びっくりするかもしれない。しかし、自分も学生の頃、自主映画やっていたし、その後も時々見ていたので、むしろ懐かしい感じでした。

今日は、昼間、劇団ハイバイの舞台を収録したDVDを見てました。ここの芝居はおもしろいんですけど、同時にとても自由なんだ…ってことを感じます。いわゆる、お約束から自由なんですね。お約束…といっても、はっきりした決まりはないのでしょうけれども、ハイバイの芝居は、まるで落語のように、語り手が途中から、別の人物も演じたり、ひとりで何役もやる。かと思うと、途中から、別の役者が出てきて、それまで語り手がやっていた役にいきなり成り代わったりする。

見ている側は、瞬間混乱するけど、1度その手法になれれば、ひとがどんどん増えていき(といっても、マックス4人くらい)、役柄を4人の間でまわしても、理解できるようになる。そういう状況で物語りが進んでいく。

今、書いたこと、なかなか、わかりにくいかな。

ひとりの俳優が、「男A」と「女A」をひとり二役で演じていると、途中から、別の俳優が突然でてきて、「女A」をやる。急に二人芝居になる。が、これも演じているうちに、最初の俳優が「女A」をやったり、途中から来た奴が、「男A」をやったりする…ってことです。これが、人数が増え、役柄を変えつつ進む。

もう、本当に自由なんです。時間軸も場所も自由に飛ぶ。平易な言葉で綴られているから、いろいろ変化してもついていけるんですけど、この手法、誰かが、「そんなのへんじゃないの?」とか、「おかしいよ」って言い出しそうな設定です。

しかし、元々フィクションの世界なのだから、「おかしい」も「へん」もないわけだ。まあ、映像だと、イマジナリーラインとか、シナリオ作法とかいろいろ決まりはあるんですけど、(舞台にもそういう掟ってあるのかな。知らないですが)、しかし、映画だって、なにやったっていいんだよね。

ただ、主人公を演じていたひとが、途中で別の役者になったりすると、客は混乱するってだけの話です。そういえば、先日、亡くなった、つかさんの芝居とかでも、衣装はみんなジャージだったりすることもあった。舞台っていえば、セットがあって、それにあった衣装を着て…って決まりは別にないわけだ。

要は伝わればいいし、すべて作り手の意志次第なんだよね。

しかし、そういう、作りの手のすべて「自由」でいいんだ…ってことを、時々忘れてしまう。ルールに縛られてしまうことがある。まあ、テレビは、そんなに自由が許されていないので、しかたないんですが、自ら縛るものに慣れないようにしたいところ。

創作は自由でいいんだ。っていうか、自由に決まっているだろうって。ただ、自分の伝えたいもの、表現したいものが、より伝わりやすくするための、法則はあるよね…ってくらいのもの。あと、映像だと、スタッフや役者がそれを理解してくれるかって問題がある。

しかし、自由でいいんだ。やりたいようにやればいいんだ…ってこの基本、大人になると忘れがちなので、注意したいところでございます。はい、自分に言ってる。

今日の行動
夕方から、久しぶりにジムに行き、筋トレをして、プールで150メートル泳ぎました。○キログラム太ってました。きゃー、アイスを連日食べたせいでしょう。とほほ。

ちなみに、森岡龍監督の「硬い恋人」は、7月28日にもう一度、上映される予定です。