山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

フリーランスで働くことについて。

突然ですが、フリーランスで働くことについて考えた。

最近、知り合いでフリーになったひとがいて、そのひとが、すごい不安…とか言っていたので。確かに、大学を出てから、会社員としてずっと働いてきて、40代でフリーになるのは、不安だろうなあと思う。やはり、フリーは若いうちにやっとかないと。…いや、会社員も若いうちになっとかないと…ってことかもしれないから、どっちにしろ、「若くないと間に合わない」ってこと?…わからないけど。

自分は30歳で世の中に放り出されまして、所持金3万円、貯金30万円からのスタートでした。最初の一年はかなり貧乏だったので、その冬はコートを布団代わりにして寝たり、ヤカンもポットもなかったので、鍋でお湯を沸かして、おタマで紅茶を入れていた。本当にお金がなくなったとき、誰が頼りになるか、どうやって、お金を集めるか…ってこともその時期、ある程度は学びました。

もちろん、自分はギャンブルに手を出すタイプではないので、莫大な借金を抱えたことはないので、普通の働き方では返せない借金については、わかりませんが、だいたいゼロからのスタートは経験しているので、不安は少ないかな…っていうか、日常が不安定だから、いちいち経済的な問題で不安になったりしないなー。

これからの世の中、会社員になって、一生安泰ってひとも少なくなるのでしょうから、フリーも増えるんでしょうね。じゃ、フリーの心構えってなにか…っていったら、実はなにもないし、自分も安心して毎日生きているわけじゃない。ただ、ちょっとやそっとであたふたしない根性はある。

一応、テレビのディレクターという手に職があるように見えるけど、これもいつまで通用するかわからないし、まったくなんの保証もないしね。

ひとがなにかに不安を持つとき、その理由のひとつには、自分が理想とした姿、あるいは、多くのひとがそうしているだろう雛形と自分が離れてしまう…と想像するからじゃないかな。

無縁死の問題にしても、"普通は"、愛する妻や子供や孫に看取られて死ぬのだ…それこそが幸せの形なのだ…と思っていたら、ひとりで死ぬことが不安になるだろうけど、「みんな、最後はひとりぼっちです」と言われたら、「そうかもなー」と胸をなで下ろすこともできるかもしれない。

この「みんな、ひとりです」とか、「たとえ、ひとりでも、最後は神さまが迎えに来てくれます」って、信じさせてくれるのが、宗教の力だよなあ。無縁死=さみしい…と考える背景には、やはり、宗教の不在があるようにも思う。無縁死を避ける方法のひとつに、宗教に入っちゃう…というのもある。(勧めているわけじゃあ、ありませんよ、別に)。だって、宗教って、死の恐怖から生まれているところがあるんだもん、どんな宗教だって、ちゃんと答えは用意されているはず。

先日、朝日新聞の悩み相談コーナーで、「妻が新興宗教にはまっていて、困る。離婚も考えているが、宗教を理由に離婚したくない、どうしたらいいか」という相談があった。答えていたのは、作家の車谷長吉さんなんだけど、この答えが秀逸だった。(以下、記憶の範囲で再現)

人生は辛いことの連続です。それから逃れる道はない。連続してやってくる辛い目から逃げる方法には、発狂するか、自殺するかしかない。しかし、宗教に入れば、それなりに救われる。お金もなくなるかもしれないけど、他にそんなに「手」はないと。生きる苦しみにまっこうから立ち向かうのには芸術があるけど、それを貫くのは、人生の辛さを乗り越えるよりもたいへんだと。辛いことが連続しているらしい、その妻を、夫であるあなたが、宗教から抜け出させる手はないです…と。

これじゃあ、相談にならないじゃないか…とも思うけど、痛快であった。ここで、気休めのように、夫であるあなたの「愛」で救ってあげてください…などと、いい加減な答えを出さないところがいいと思った。いえ、だからって、解決したわけではないと思うけれども。

フリーランスの話からずれました。けれども、なにごとも多く、あるいは、架空の「普通」を求めると苦しい…ということではないかしらん。この世に「普通」なんてもんは、そうそうなく、それからはずれたところで、右往左往してもしかたないってことで。つまり、すべて、考え方次第ではないか…まことに、いい加減な結論で失礼。