山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

松尾スズキ著「宗教が往く」

数日前に、松尾スズキ著「宗教が往く」を読み終わった。

今は、インドの作家、タゴールの本を読んでいるんだけど、時々、フト、「宗教が往く」が懐かしくなり、あの世界に戻りたくなる。とても長い小説で、いったいいつ終わるのだろうと心配になるほど長く(426ページで二段組み)、しかも、登場人物がやたら多く、コメディにも関わらず、たくさんのひとが死んだり、殺されたり、殺したり。「ヒヒ熱」なる不治の伝染病が流行ったりと、とにかく、めちゃくちゃ。…にも関わらず、読み終わったあとも不思議と気になった。これは、なにか書いておかないと気持ちが落ち着かないと思い、今日はこの小説の感想を書きます。

劇作家、映画監督としては、松尾スズキさんを大変、尊敬しているのですが、小説家としては、今ひとつ、正直大ファンというほどではなかった。「老人賭博」が芥川賞候補になり、楽しく、読了し、残念ながら受賞を逃し、それをきっかけに、ツイッターなどでも、話題になったことがきっかけでした。書評家の豊田由美さんが、松尾さんの作品なら、「宗教が往く」が傑作だ…と書いていたのを見て、さっそく、注文した次第です。

で、この小説は書き始めてから書き終わるまでに、5年もかかっていると言う。その5年間のうちに、「大人計画」はすっかり有名劇団になり、松尾さんの演出助手だった、宮藤官九郎氏は人気脚本家になり、松尾さん自身も名前が売れてしまった。そんな激動を経験しながら書き進められた小説。かなり特殊な作品ではある。

内容は、博多で生まれたフクスケなる人物の生い立ちと、上京して、「大人サイズ」なる劇団を作り、その劇団の成長と破綻を描いているので、読みようによっては、松尾さんの自伝的小説である。しかし、自伝というには、あまりにめちゃめちゃで、やくざは山ほど出てくるし、違法薬物もじゃんじゃん出てきて、人は死んだり、殺されたり、殺したりたり、その死体を解体したり、燃やしたりだし、新興宗教の教祖も出てくるし、スケールがでかすぎる、負のスケール。

基本的にはコメディで、笑いが満載。…といってもかなりキツ目の笑いで、荒唐無稽な設定や事件の連続なので、「ふざけた」感じがする。が、ギリギリのところで、ものすごくなにか強いものを感じさせてくれる小説なのだ。

なんというか、いちご豆大福みたいな感じかな。つまり、中心には、イチゴという可愛くて甘酸っぱいものがあるんだけど、それをまず、あんこがつつみ、さらにモチがつつみ、モチには、豆がいくつも埋め込まれている。さらに真っ白な粉がかぶしてある。

イチゴ大福に例えると、モチや豆やあんこが、笑いの部分であり、それがかなり分厚い。なので、最初は芯にあるイチゴの存在に気づかない。けど、一番の味わいどころはこのイチゴかもしれない。

じゃ、このイチゴ=核ってなにかというと、たぶん、ひとりの女性への愛ではないかと思う。この壮大な物語の核心にあるのは、5年の歳月のなかで、出会って別れてしまった、ひとり女性への愛と追憶と懺悔なのだと思う。その部分はほんのわずかなんだけど、かなりきゆーっと心に残る。

この女性は、常識で考えたら、ほんとうにどうしようもなく、なるべくなら関わりたくないような女性だけれども、そのようなひとに、気づかぬうちに惚れていく感じが、よおおくわかるのだった。でも、別れることになる。ちょっと、引用すると…

わたしはカオリと結婚するつもりだったのだ。
二人でバカなことを言い合っていれば、この生きづらい世もなんとか数十年くらいだったら、ごまかしおおせるのではないか。
叶わぬ夢だった。いつも肝心のところで指の隙間からサラサラと砂となりこぼれ落ちる。

(引用終わり…)
根底にある、優しさというか、人間を肯定する態度みたいなものが、すごくあるような気がする。それを幾重にも笑いで巻き付けて。その世界が妙に懐かしくて。芥川賞の選考で、「映画に対する愛が感じられない」と言われたみたいだけど、これほど、劇作や「おもしろい見せ物」を作ることに愛情を注ぎきったひとは早々いないのではないかと、その力を感じたのだった。どすん!と来る小説でした。

お知らせ

明日(2月20日(土))、知り合いのナレーターであり、俳優である大川泰樹さん、坂東巧さんが出演する、
「tokyo copy writer's street live があります。
名コピーライターの書いた物語の朗読を聞く会です。声と物語だけで世界を受け取る…とても贅沢な時間です。

自分も明日、遊びに行きます。興味のある方はぜひ。