山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

「直し」は日常である。

仕事、一段落。

っていうか、明日、プレビュー(試写)だけど。とりあえず、一応、ひとつできた。このあとは、これを直す作業に入っていくわけですね。

テレビの仕事というのは、基本、「直し」である。最初につくったものでOKってことはまずない。ドラマの脚本でもドキュメンタリーでも教養番組でも「直し」の連続。「直し」というと、一見、「ダメだから直すのか」と思われがちだけど、そうじゃない。「直す」ことは作業の大前提としてある。それはもはや当然のことだ。

テレビは「マス」…たくさんのひとを相手にするメディアだから、作家個人がその考えを披露する場所じゃない。いろんな部署の意向を反映しつつ、できるだけよきもの…この「よきもの」の基準も難しいところだけど…結局は、たくさんのひとにわかるもの、たくさんのひとが感動できるもの=よきものなのだろう…「よきもの」を目指す。

だから、何度も会議を重ねて、「よきもの」に近づけていくのだ。

まあ、そういう風にして、これまでもテレビ番組を作ってきたのだ。なので、「直す」ことに関しては、抵抗は少ない。少なくなった。慣れた。

とはいえ、初めてドラマの脚本を書いた頃は、この「直し」がいやで、結構モメた。だって、自分が心血注いで、練りに練り、考えに考えて書いたものが、いとも簡単に「ここ、直して!」と言われてしまうんだもの。

小さなセリフひとつだって、書く側は、「どうしてもこれじゃないとダメ」と思って書いているのに、誰かのひとことで、消されてしまう。どころか、大きなストーリーの流れを変更させられたり、そもそもの主旨を変えさせられたりすることだってある。こういうのは相当きつい。きつかった。なので、そういう時は、降りてしまった。

けれども、小説を書くようになってから、そういうことはなくなった。自分だけの世界を展開できる場所が見つかったから、ほかではちゃんと、たくさんのひとの意向をくんで、みんながハッピーになれるようにがんばれるようになったのだ。…大人になったよ…だいぶ、遅かったけどね。

自分の表現とか、自分の考え…ってものは小説でやろう、映画でやろうと思っています。(映画でどこまでやれるかはまた、むずかしいけど…とりあえず、小説は、書くのは無料だからねーどれだけ好きなこと書いても自由だし…もちろん、出版してもらえることとは別なんだけどさ…)。

ふうむ。自由とはなにか、表現の自由とはなにか…毎度、考えちゃうよね。

でも、いつもある一定の枠組みのなかでものをつくっていると、知らないうちに、自己規制して、外に出られなくなってしまう。それはそれでつらいんだ。

最近、心に響いた言葉。取材で会った、とある文学者が言っていた。作家でも作曲家でも、芸術家というものは、自分の作品を作ることでしか救われない…って。うんうん、って思った。そうありたいものです。