山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

数という病。

「数字」で評価されることに、やるせない思いをしつつも、「数字」という評価から離れられない体質について、犬やケーキという日常のあとに書こうと思います。まず、犬。



新しいベッド(奥のブルーのやつ)を無視して、古いベッドでくつろぐ、ミニ、9歳。

深夜に、スポンジケーキを焼いてみた。


衝動的に作りたくなった。ショートケーキならぬ衝動ケーキ。



最初は、シンプルに飾っていたのだ。
しかし、もっと、トッピングしたくなり、

栗の甘煮(恵那生まれ)などを配置。


それでも、創作欲が止まらず、事態は明らかに、悪化。明らかに、最初のシンプルなデコレーションのほうが美しい。そして、同時に思うことは、なんて、平凡な飾りなんだよー。次回はもっと美しくしたいと思いました。

さて、「数字」について。

小学生の頃より、進学塾に通い、中学受験を経て、偏差値に一喜一憂して大きくなった身であるから、数字による評価にうんざりしつつも、慣れきっているし、数字による評価からなかなか離れることができない。

テレビの仕事についてからは、視聴率に踊らされてきたし、小説を書けば、発行部数と、売り上げランキングに心を奪われ、映画を撮っても、興行成績をつきつけられる。もう、なにをやっても、「数字」による評価から、逃げられない。

いや、そんなことはない。いつだって逃げられるよ。数字で評価されない世界があるよ…とひとは言うかもしれない。そして、本当にそういう世界はあるだろうと思う。

が、どっかで、自分自身が、「数字」による評価が好きだったりするんだ。結局。

95年に「ある女性誌が作ったカワイイ宇宙」という番組を作った@NHKBS2。ある女性誌とは、アンアンのことなんだけど、アンアンの成長と時代について、語るようなドキュメンタリーだった。そのなかで、女性誌の発行部数が伸びるに従って、女性の編集者が増えていく…ことについても、触れた。

初期のアンアンは、とんがった男性クリエーターによって、作られていて、非常に斬新だったけど、部数は伸びなかった。ところが、女性の編集者が担当するに従って、グルメや旅行などの記事が増え、最先端の文化を担うのではなく、身近な楽しみを伝える雑誌となっていく。

この時、女性の編集者が増えた理由は単純だ。「数字」だ。女性に作らせた方が「売れる」。テレビドラマも同じ歴史を辿る。ある時代から、女性の脚本家が増えた。なぜなら、女性が書いたドラマが視聴率を撮るようになったからだ。

自分も同じ理由で、比較的若いころに、ディレクターになった。それまで、テレビでは、女性ディレクターは少なく、茨の道だったのだが、一番手っ取り早かったのは、「数字をとる」ことだった。数字をとる番組を作れるなら、女でもかまわん…ということで、ディレクター職にありつけた。

女性の社会進出については、フェミニズムや先達の女性たちの努力の成果はもちろんあると思うけど、一方で、市場社会だからこそ、女のひとでも平等に扱われるようになったとも言える。数字さえとっていれば、女でも子供でも、誰でもいいのだから。

そんなこともあって、数字の持つ力から、なかなか自由になれない。数字は時に、ひとの意見をひっくり返すことができるから。(視聴率とると、昨日まで批判的だったひとも黙ってしまう)。両刃の剣でもあるけれど。

なんで、こんなことを書くかといえば、ツイッターをやっていると、日々、フォロワーが増えたりするので、妙に敏感になってしまうからだ。ツイッター上で知りあうひとについても、「フォロワー数」を参考にしてしまったりする。

ツイッターに限らず、ネット上は、結構、数字の世界だ。というより、もっと純粋に数字で判断される世界なんじゃないか…って思ったから。その分、フラットになっていく…とも思えるけど。

あーすみません。うまくまとまらない。電子書籍がやって来たり、ユーストリームの中継などで、メディアが劇的に変わろうとしているから、そのとき、なにが起こるのか、怖さ半分あるけど、それ以上の期待と楽しみがあって、そこらへんについて、日々、考えています。

まとまらず、失礼しました。

ただ、「数字」はもっと、一人歩きしていくような気がする。漠然と。いろんなしがらみを取り払って、「数字」の持つ力がもっと大きくなっていく…じゃないか。