山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

見えないものへの祈り

犬を亡くして、クヨクヨしている日々です。

毎朝、起きると、思わず、「ミニ、おはよう」とこれまで通り言ってしまうのですが、その時、「おかしいよな、自分」と思う一方で、姿が見えないだけで、どこかそこらへんにいるのだ…と考えてもいいのではないかと思っています。

元々、犬ですから、私が「おはよう」と言ったところで、「おはよう」という声が帰って来たわけではないので、姿が見えないだけで、「いる」のだ…と考えることもできるわけです。

自分が求めているのが、「言葉」による返事ではないとして、その気配だけあれば、いいのではないか。もしかして、ミニによく似たぬいぐるみ状のものがあれば、それに話しかけることで、いくぶん、発散されるのではないか…と思いました。

それって、つまり、「偶像崇拝」ですよね。いきなり、宗教用語ですが…。

キリスト教や仏教だと、教会やお寺にいくと、キリストやマリアの像や、文字通り仏像があったりする。そして、ひとはその「像」に向かって祈りますよね。でも、その像になにかか存在している…と信じているわけでもなくて、祈りとは結局のところ、心のなかの出来事…精神的な出来事であるわけですね。

で、昨年、エジプトに行った時、いくつかのイスラム教の寺院に行きました。イスラム教の神様はアラーです。有名ですよね。でも、イスラム教の寺院のどこにも、アラーの像はないわけです。

祈りを捧げるスペースの前には、布が被せてあったり、ただの壁だったりするんですね。ひとびとは、壁に向かって祈る。

自分はイスラム教について、まったく知らなかったのですが、イスラム教は偶像崇拝ではなくて、アラーはそれぞれの心のなかで想像するものであって、具体的な像はないんです。ちょっと感動しました。

それぞれの心のなかにいる…それってなんか、いいな…と。

そういうわけで、自分も今、姿は見えなくなってしまった犬に向かって、祈りを捧げるみたいな気持ちでいます。

いないけど、いる。ずっといる…みたいな感じ。

こういう感覚が宗教心の始まりなのでしょうか。誰かを亡くして、それを悼む気持ちから生まれたのだろうな、宗教って…とシンプルに思います。

失われたものをいくら考えてもしかたがない…と言われても、考えてしまう…思ってしまう…それが人間ってもんでございます。

その、「いまさら、考えたってしょうがないけど、考えるのをやめることができない」という思いを、「だったら、考え続けようよ。目に見える範囲にはいないけど、どこかに…心のなかに、空に、天にいると考え、それに向かって話しかけようよ…」これが、祈りの原点ではないかと。

イスラム教のように、その姿は想像する…という形もあれば、キリスト教や仏教のように、「像」を作って、それに向かって祈る…ってこともある。けど、向かう心は同じようなものなのではないかと思いました。

さしずめ、今の自分は、犬教なんですけど。そして、祈りのために、偶像を作った方がいいかな…とかも思っています。

例えば、ぬいぐるみのようなものを作る。それをご神体とする。あるいは、ミニの残した毛を布の袋にいれて、それをお守りとする…みたいなことですね。

あ…宗教じみている?ひかれるでしょうか。

でも、これも、喪の仕事であります。たぶん、治癒への道だと思います。

冷静にその道筋を見ている自分と、「そうだ、ぬいぐるみを作ろう」と思う自分が同時に存在しています。

失うということは、それについて考える機会を絶大に与えるものだってことを、しみじみと感じています。

喪失の衝撃を自分なりの方法で、鎮めていくしかないのだということ。

それが自分にとって、医学的な死の原因を探ることであり、見えないものへ祈ることであり、旅に出ることであります。

まだまだ、そういうことばかり、考えております。

だってまだ、一ヶ月も過ぎていないからね。