山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

せめて自分ができること。

ここ数日は、ひとさまの作られた映画や本を、えらそーに批評しておりましたが、今日は全然ちがう話です。

明日は1月20日ですが、ミニ(=最愛の犬)が亡くなってから三ヶ月になるのだなーと思いました。ミニは10月21日の早朝、この世を去ってしまいました。

あれから三ヶ月。

その直後は、テレビの仕事が忙しく、泣いてばかりもいられず…といっても、編集室のトイレとか制作会社のトイレとかスタジオのトイレとか…トイレばかりですが、こっそり、泣いたものでした。

でも、基本的には仕事に忙殺され、あれよあれよと時間が過ぎ、それが終わったら、パリに行って、映画祭でわいわいしていて、その後は、イギリス犬の旅をして、帰って来たら、忘年会でわいわいし、続けて、お正月…という、ある意味、ずーっと落ち着かない日々が続いていたのでした。

でも、それは悲しみにどっぷり浸っていられない…という意味では良かったのかもしれない。

で、お正月もあけて、ちょっと残っていたテレビの仕事も終わって、なんか、すーっと自由になりました。それで、気がついたら、三ヶ月も過ぎていた。あっという間だったような気もするけど、もう、何年も前のことのようにも思える。

自分しかいない家のなかの静けさに慣れたような、慣れないような。

洗面所でメイクを落としている時なんかに、居間のほうで、かさっ…なんて音がすると、「あれ、ミニかな」なんて今でも思う。静けさを破るのは、ミニの何気ない動作だったからね。けど、もういないんだなあ。

正直なところ、犬がいない寂しさに耐えられない。この世には飼い主がいない犬がたくさんいるのだから、そういう子を預かろうとかと何度も思う。

けど。ギリギリで我慢してます。

新しい犬を飼う前に、やりたいことを整理して、その準備をしようと思う。遠大な計画であるし、できない確率のほうが高いけど、でも、やりたいな、やるべきだと思えてきた。

自分のさびしさを埋めるためだけに、新しい犬を飼っちゃだめだよね。

新聞を読んでいたら、日本では里親制度がうまくまわっていなくて、養子を求める子どものいない夫婦はたくさんいるのに、養護施設で育つしかない子どもが多いことが書いてあった。(by 朝日新聞)。親のいない子どももたくさんいる。

いや、世界に目を開けば、もっといろんな悲惨な出来事、救いを求めている事象はたくさある。

けど、せめて、自分ができること…といったら。そして、これならできそうだということといったら。

同じく、朝日新聞に、野の花診療所というホスピスを立ち上げた医師(徳永進氏)の話が書いてあった。53歳のときにそれまで勤めた病院をやめて、山ほど借金を背負って、診療所を開業する。死と向き合う病院として。

友人の(友人と呼んでしまうには、おこがましいけれども)、村崎芙蓉子さんは、50代で、それまでやってきた心臓外科医をやめて、女性の更年期障害のための専門病院を開いたという。

どちらもたいへんな挑戦で、最初から勝算があったはずもなく、しかも、50代という、すでに若くない年齢だ。でも、やった。やりとげたんだなって。もちろん、今でも維持していくのはたいへんだと、野の花病院の徳永医師は語っている。

最近、そういう記事や話に心を惹かれることがとても多くて。

自分のなかに福祉の気持ちがあるなんて、信じられないけど。いや、対象が犬ならば…。

もちろん、これからも小説を書いたり、映画を撮ったりという、最大自分のやりたいことというのはあって、それはそれで、進めていきたいんですけど、その他に、やっぱり、犬という生き物へ、できることをしたいなーという気持ちがマックス、強くなっているのでありました。

いえ、まだ、なにもわかってないんですけどね。

でもやっと、時間ができたから、これからのこと、考えよう。

幸い、自分はひとりで、自由で、誰かを食べさせなきゃ…とかって義務がないので、楽ちんです。自分ひとりのご飯なら、自分でなんとか稼げるし。

…ということで、とりとめがないのですが、このあとの人生について、今は、考えているのでした。

なんか、それがミニがわたしに教えてくれたことで、残してくれたことかな…なんてさ。