歯医者さんで、ちょっとだけ雑誌「アエラ」を読んだ。
なかに、ツイッターに関する記事があって、ツイッターというメディアに対して、結構批判的だった。
ツイッターでは、まわりの雰囲気に合わせる感じがあって、正直につぶやけないから、やめていったひともいる…みたいなことも書いてあった。
ツイッター…あんまり意味ないよ…っていうのが、テーマだったのかな…って思う。
なんでも新しいものが始まるとき、ちょっとした不具合を見つけて大きく騒ぐ…それによって、その新しいものを無化する…という方法もあるとは思う。
「攻撃的」展開っていうのか。年老いたもの、先行世代のひとがやってしまいがちな手法だ。
自分もすでに先行世代だけど、ツイッター好きなので、あんまし納得できなかった。
で、まあ、それはいいんだけど(え、いいのか…)、同じ記事のなかに、水嶋ヒロの小説に関するコメントもあった。
ポプラ賞をとった「KAGEROU」という小説は、100万部近く売れているけれど、アマゾンなどの書評の7割近くが、低評価で批判的であるらしい。
この事実から、今は、「いい作品、面白い作品だから読むのではなく、情報を共有して、それをネタにしゃべるために読む」ようになっている…とやや嘆いている。
これは映画などでも、同じことが言える。
作品のよしあしは結構どうでもよく、仲間内(リアルな友人だけじゃなく、ネット上でのやりとりも含めての仲間)でその作品をネタに騒ぐために見にいく…という現象が起こっている。
このような状態をさして、“祭りになっている”とよく言われるけれども、そして、そう言われるときは、「否定的なもの」として語られることが多いように思う。
確かに、作品そのものではなく、イベントのひとつ、ネタのひとつとされるのは、作る側から見ると悲しいし、作る側じゃなく、見る側としても、そういう楽しみ方はそれほど好きじゃない。
映画はひとりで見にいくし、本の感想をひとと語り合うことも少ないし、そういうひととのつながりのために、映画や小説を使うということをしないし、したくない方である。
けれども。
祭りにされてなんぼのものか…って部分もあるように思えてきた。
たくさんのひとが、それをネタに語りたくなるような作品。いいも悪いも好きも嫌いも含めて、ひとの口を開かせる作品。
芸術作品……大きく出たけど、…芸術作品ってもしかして、そもそもそういう存在であるかもしれない。
もちろん、たくさん売れることだけを目指して、内容よりもスキャンダルを優先するような風潮はあるし、それはあんまり好きじゃないけど、けど。だからって、映画や小説が「祭りの道具」になることを、嘆いちゃだめなのかもしれないと急に思った。
美術館や博物館に入って、批判されることもないかわりに静かにじっといるだけ…という存在のしかたもあるかもしれないけど、同時代に生きて、批判されたり、バカにされたり…でも時に号泣させたり…ということが芸術の宿命なのではないかしらとも思う。
あ…ぐらぐら視点が揺れてますね。
アエラには、情報過多の時代になにを選んだらいいかわからなくなって、口コミやたくさんのひとがいいというモノをいいと信じて、体験して、安心する…という構造ができているって書いてあったように思う。
それはたぶん、正しいと思う。
でも、情報過多なのは事実。なにを選んでいいかわからなくなるのは事実。
自分は映画や本が好きだから、日頃からいろんな情報を仕入れて、自分の好みで選択しているけど、それは自分の好きな分野だからだ。
一方で、ゲームやスポーツなど、自分には弱い分野がある。そうなると、「有名なもの」「よく知られているもの」から選んでしまうかもしれない。
なにもかもに自分の好みを通せるほど、博覧強記のひとはそんなにいないだろうし。
だから、「祭り」は時代的必然なんだよね。この流れに棹を差してしかたないような気がしてきた。
祭りのときは祭りを楽しむしかないんだろう。
けどさ、祭りが終わったあとも、祭りが始まらなくても、お客さんはひとりでも、自分のつくったものとか書いたモノとかが届けばいいなと思う。
あ…最後はシリアス路線になっちゃった。