山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ハイコンテクストな映画って。

今、求められている映画ってなに…ってことについて、考えた。

昨日、映画「ノルウエイの森」を現代アートの村上隆さんが絶賛していることについて書いた。これは、ツイッターでもまとめた。

村上さんがこの映画を褒めるポイントは、ハイコンテクストだってこと。

きわめて現代的で、批評性にとんでいて、いろんな見方ができる…ってことだと思います。

正直、自分は映画「ノルウエイの森」について、そこまでは思わないけど、でも、今こそ、「ハイコンテクストな映画」が求められているとは思う。

そうじゃないと、映画というジャンルが死んでしまう。そういう危機的状況にある…ような気がする。

じゃあ、ハイコンテクストな映画ってたとえば、なによ…ってことだ。

昨日は、一瞬、「ゴダールソシアリズム」のようなものじゃないかしら…と書いたけど、えーと多分、間違っていないとはいえ、それでよし…でもないと思う。

なぜなら、「ゴダールソシアリズム」は誰が見ても、面白い…というものではないからね。

すごくざっくり言えば、最近では、「告白」と「キック・アス」「ソーシャル・ネットワーク」がハイコンテクストな映画にあたると思う。

「告白」は、本当にいろんな見方のできる映画だった。映像表現の面からも、音楽からも、物語からも語ることができて、批評性に富んでいる。

自分は「母と子どもの愛情」神話から解析できるなーと思ったけど、他にもいろんなやり方ができると思う。

なおかつ、そういうこととは無関係に、単におもしろがって見ることも充分に可能。

つまり、映画について、ムチなひとでも、非常に映画通なひとでも、両方楽しめるってこと。それだけ、重層的な作りになっているということですね。

「キック・アス」も同じ。

子供でも面白がって見ることができる一方で、ヒットガールが、敵を殺しまくるカット割りがシューティングゲームそのものであり、そこにすごい批評性を見たって、ゲーム好きの友人(©おじいちゃんという名の30代)が言ってたけど、いろんな意味を読み取ることができるんだよね。

「ソーシャル・ネットワーク」についてもそう言える。

「facebook」を作り出したひとの伝記としても見られるし、裁判ものとしても見られるし、いろいろ可能。そして、なにより、面白くて、目がはなせない作りになっている。

なあんだ、そういうことかー。と、自分で勝手に納得した。

小説の分野でいうとさ、ジョン・アービングの初期の作品とか、日本なら多分、村上春樹さんの「1Q83」とかになるんだろう。

自分的には、フランスの小説家、ミシェル・ウエルベックの一連の作品だと思う。面白くて、批評性に富んでいて、そして、これまで「誰も書いていなかったもの」

そうだ、このポイントを忘れていた。

「これまでに見たことのなかったもの」

これもポイントだよね。

「告白」も「キック・アス」も見たことのなかったものだった。

自分の好みでいうと、「アメリカン・ビューティー」「ファイト・クラブ」などもその範疇に入るように思う。

こうやって考えると、邦画って、ハイコンテクストな作品って少ないように思う。なかなか思い浮かばない。

良質なエンターテイメントって方向の作品が多いよね。

…ということで、自分のなかでの整理でした。

自分も、言ってみれば、ハイコンテクストな小説や映画を目指しているんだな…ってことに気づいた。

けどね。

それって、達成は難しく、なおかつ、日本のマーケットではかなり、受け入れられにくい…という現状はあると思うのでした。

特に小説はねー。

…とはいえ、めげずにゆきたいものでした。