山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

空気が一番、怖い。

今日の朝日新聞の記事に宗教学者の島田裕巳さんの記事があった。

近刊の著書についてのインタビューだったけど、なかに気になることがあった。

それは、「空気が一番おそろしい」って話。

島田さんは、オーム真理教の事件の時に、事実無根の記事を書かれ、それによってひどいバッシングを受けた。

当時を振り返って島田さんは、「空気に比べたら、多くの物事は大したことはありません」と語っている。

なんか、わかる!と思った。

「空気を読む」という言葉が流行ったけど、流行った背景には、空気を読めないととんでもないことになる…という実感があったんだと思う。

今や、いろんな出来事を支配しているのは、「空気」かもしれない。空気だからこそ、闘いようがないのではないか。

つまり、具体的な誰かが、なにかを画策しているのなら、闘いようもある。けど、「噂」のような、漠然としたもの、みんなが根拠なく信じ始めるもの、それには中心がないから、責めようがないし、誰も責任をとらないから、被害を受けても、それを訴えることもできない。

そういう漠然とした空気の怖さを感じる。

エジプトの革命を見ていても、革命が起こるときにいるはずの、絶対的な指導者は見あたらなかった。なんとなく、みんなが、「おかしい」と思い、行動したことによって、民主化への道が開かれて。

指導者がはっきりせず、「空気」が支配したからこそ、攻撃されにくく、成功したんじゃないか。

これは、「空気」がいい方向に働いた(たぶん)、例だと思うけど、逆の場合も充分起こりえると思う。

なんとなーく、悪い方向に空気が向かえば、罪がなくても、(さきほどの島田さんのように)、根拠なく、居場所をなくしたりするのだ。

その方法は、すぐに予想ができる。誰とはいわずに、「あのひとは、仕事からはずそう。ちょっと評判悪いから」みたいな簡単なことが、どんどん広がって、結果、仕事ゼロになり、どこかへ追いやられる…みたいな事態は予想できる。

また、逆も真なり。

なんとなーく、「あれ、噂になってるね」という感覚からヒットしていく…とか。たくさんのひとの口に上る…ということが、もっとも重要だったりする。それが、「評価」や「絶賛」じゃなくても、「不満」や「否定」であっても、「噂される」ということそものが重要だったりする。

まあ、いわゆる「イベント」化、「祭り」化、ですね。

ゆえに、「空気」が一番怖い…と。

ツイッターをやっていると、その「空気」を如実に感じる時がある。みんなが同時に似たようなことをツイートし始めるのだ。いい悪いはともかく。

それを見て、今、なにが注目を集めているかを知ることもできる。

いわゆる、口コミ…ということになる。

この口コミ…支配可能なんだろうか。

つまり、大きな組織が、流行させることを目的に、大量の「つぶやき」を発信させることで、ヒットは作れるんだろうか。これはわからない。

けど、ある程度はイエスで、ある程度はノーなんだろうな。もし、できるなら、みんなやっているもんね。

それでも、「空気」には、やっぱり注意したい。空気に流されて選択してしまわないようにしたいし、恐ろしい空気に組み込まれないようにもしたいよね。

もちろん、空気に溺れて、ふわふわ飛ぶ風船みたいに、風任せ、空気任せで、流行ものにゆだねた生き方も否定するわけじゃない。

それはそれで、楽で楽しいのかもしれない。いつでも、「なにか」の風は吹いているから、その時の一番強い風に常に乗っていく…のもありなんだろう。

時に自分もそうするさ。

でもね。そればっかりじゃなくいきたいところであります。