星野智幸著の小説「俺俺」を読んで、おもしろいなーと思いつつ、奇妙な符合を感じたので書きます。
「俺俺」は、ささいな気持ちから俺俺詐欺をはたらこうとした主人公が、自分と同じ「俺」と出会い、その「俺」が増え、「俺山」まででき、「俺」がどんどん増殖していく…という、喜びと恐怖を描いた…とてもストーリーを説明しにくい小説です。
俺が増殖していくというシュールな展開が、マック(マクドナルド)とか、家電量販店とか、出世願望とか、社内イジメの恐怖とか、ごく日常的なベタな設定のなかで、描かれていくのが面白い。
でも、強く感じるのは、あーこの「俺俺」言っているひとが増えている感じ、とてもよくわかる…ということ。俺にしか関心がなく、それゆえ、相手の必要となる恋愛が苦手で、会社などの組織で働くことも苦手。
できれば、自分ひとりで完結して生きていきたい…って気持ちは、案外、誰もが共有しているものではないかしら。
主人公の俺が、ひとりになって、俺でもなんでもなくなる瞬間を愛しているのはよくわかる。
自分もひとりでいるのが好きですもの。
今の若い人の、ファーストプライオリティが、恋愛ではなくなった…っていうのもよくわかる。恋愛には相手が必要で、相手の機嫌をとらないといけないし、傷つけられる可能性もある。
そんなんだったら、部屋にいて、ネットでエロい画像でも見てればそっちのが楽なのではないか…というのもわかる。
自分の時代は恋愛第一だったから、想像しにくいけど、もはや、恋愛に興味のなくなった今、気持ちは「俺俺」のひとたちに近いからね。偶然だけど。
で、この「自分にしか興味がない」傾向って世界的なものかもね…と思いました。ネットのおかげかもしれない。
まったく毛色はちがうけど、映画「ブラックスワン」もまた、俺俺の世界です。俺俺というより、バレリーナですから、「わたしわたし」の世界。
こちらは、バレリーナの遅れてきた「自分探しの物語」とも読めるわけです。彼女が求めているのは、すべて自分であって、敵も自分なら、味方も自分なんですね。他者が不在。
この、「他者不在」こそ、「俺俺」に共通すること。
じゃあ、それほど、自分にこだわった自分たちは、どこへ行くのか…っていうと、それが、自分そのものが、どこまでが自分だかわからなくなる…という、ねじれを生じるんですね。
強烈に執着しているはずの「自分」なのに、いつのまにか、「自分」でなくなっている。その不安。
これって、現代的だなと思う。
あなたは唯一無二の存在です。オンリーワンです。と言われて育っても、同時に、あらゆる面から評価を受け、それが数値化されることに幼いころからならされている。
社会に出たら、オンリーワンなんかじゃないことは誰でも一緒。総理大臣だって、ころころ変わりますから。
自分は唯一無為であると同時に簡単に取り替え可能な存在であるということ。このアンビバレンツな感じが、今なんですね。
もう、それを受け入れるしかない…という諦めに似た思い。
一方で、ブラックスワンのように、真剣に自分探しをしてしまうと、そこにはかなりの危険が待ち受けている…とうことです。
自分探しは極めると、自己破綻を招きます。
それで、時代は、「自分ばなれ」になりつつある。自分だと思っていたものがいつのまにか、自分じゃないものになっている…最近の小劇場の舞台ではよく見かける手法。
とはいえ、当分、テーマは「自分」なのだなーと思いました。
少し前の時代は、「恋愛」が流行り、テーマは他者との関わりであったけど、今、「自分」が最大のハヤリです。
自分がはやる日が来るとは…。