久しぶりに黒澤明監督の「生きる」を見た。
志村喬演じる、役所の「市民課」に勤める、係長が主人公。
30年間、あたりさわりのない仕事をしてきて、このまま、何事もなく定年を迎えようと考えていた。
ところが、突然、胃がんで余命半年とわかる。
ここから男の人生が変わる…という物語。
有名な映画だし、これに触発されて作られたその後の映画やテレビドラマもあるので、今更、説明することもないのだけれど。
男は、半年しか生きられないと知って、焦る。何をしよう、どう過ごそうと迷う。
男の妻は早くに亡くなり、男手ひとつでひとり息子を育ててきた。いわば、この息子だけが生きがいだった。
けれど、その息子もすでに結婚し、同居しているけれど、息子の嫁とは反りが合わないし、息子もよそよそしい。
いったい、自分はなんのために、30年間、面白くもない仕事を延々やってきたんだろう。
なんのために生きてきたんだろう…というアイデンティティの危機に陥る。
で、ふつうのひとが考える一通りのことをやってみる。
最初は息子に頼ろうとする。
夜の町に繰り出して、酒を飲んだり、うまいものを喰ったり。
若い女と豪遊したり。
でも。
ちっとも心が晴れない。全然楽しくない。
相変わらず死ぬのが怖いし、無意味な自分の人生がつらい。
しかし、あるとき、男は発見する。
今からでも自分にできることがあると。
自分が動いてもなにも変わらないと思っていた、役所の仕事でも、懸命にやれば、変えられるのではないかと思い立つ。
男はたらい回しにされていた、公園づくりに乗り出す。
そして、男は半年後に亡くなる。
…という物語である。
これを見て、しみじみ、黒澤明という監督は、恋愛も、親子愛も信じていないんだなあと思った。
ひとが「生きがい」を感じられるものとは、「公園作り」に象徴されるような、多くのひとに意味をもつ、なにかを作るってこと。
自己実現、と言ってもいい。
男ははじめ、ひとり息子に頼ろうとする。が、息子にとって自分はすでに、「退職金を持ってくる金づる」でしかないことを知る。
次に男は、若い女と遊ぶことを覚える。けれども、女からつきはなされ、自分が女に求めていたものを知る。
それは恋愛などではなくて、「懸命に生きる女」の姿に心揺さぶられるからだと。
そこで、男は自分も「懸命に」生きてみようとする。あと半年だけれども。
できあがった公園で、男はひとりブランコにのり、「命短し、恋せよ、乙女」と歌う。
恋とは、恋愛の恋ではなくて、やりがいのあることへの「恋」=集中、みたいなものだと思う。
前は漠然と見ていたけど、構成を意識しながら見て、はじめて、監督の意図が深くわかったような気がする。
女遊びによる快楽も、恋愛でさえも、そして、子供への愛情も、そんなことでは、救われないよって言ってる気がする。
「生きる」ってことは、なにかを実現すること、つくるってことだって。
一見、感動的な作品だけど、底に流れているものは、結構、きびしいよね。
彼のように本当に「生きる」を実現するのは厳しいから。
そんなことにあらためて気づき、黒澤明の厳しさに思いを馳せました。