先日、高円寺の座で上演された劇団宝船「撫で撫で」という舞台を見た。
ブス会のペヤンヌマキさんが演出ということで楽しみに出かけた。
主人公は、二人の対照的なアラフォー女性。
一人は、40を前にして子供がほしくなり、そこそこの男と結婚して、仕事を辞めて専業主婦になった女。
もうひとりは、エロライターとかAVのモザイク消しなどのバイトを続けながら、結婚より恋愛を重視している女。
二人は学生時代からの友人らしく、共通の知り合いも多い親友だ。(二人は同じマンションに暮らしている)。
で、一見、対照的に見える二人の暮らしが交互に描かれていくんだけど、ちょっとショックだったのは、「やっぱり、問題は男なのか」ってことだった。
えーと。
自分は恋愛至上主義が席巻した80年代に青春を送った身である。ロマンチックラブイデオロギーに骨の髄までおかされ、熱病にかかったように、恋愛がすべて(…なんじゃないか?)って感じで人生の前半を送ってしまった。
それはそれで特別に悔いもないんだけど、昨今の人たちを見ていると、もうすぐオンエアになるEテレ「オイコノミア」(2月5日、12日、23:30~見てね!)でも触れたけど、20代、30代で恋人のいないひとは、男6割、女5割である。
そのうちの半分が「恋人いなくてもいい」とさえ、答えている。
だから、今のひとは、「恋の病」を克服したんじゃないかってちょっと期待していたのである。
人は、ほしい時に手に入れられなかったものをずっとほしがる。
私の父の時代は、子供の頃、戦争があって、美味しいものが食べられなかった。だから、いくつになっても美味しいものへの執着があった。「おいしいものを食べる」ってことが幸せの象徴のようであった。
しかし、自分の世代は、食うに困ることはなく、世界中のものがいつでも食べられる日本に(東京に?)育ってしまったので、特別、食べ物に執着がない。
一方、自由恋愛に関しては、じょじょに規制が緩やかになった時代に育ったゆえ、ずっと憧れや飢餓感みたいなものと生きてきた。
ところが、今の子たちは、小学生の頃からステディだのつきあうだのやっているから、私たちの世代が持っていたほどの恋愛に対する強い思いがないように思ってた。
恋愛で他人と深く関わるより、アイドルや二次元で自分だけの世界に生きるほうが楽って思っているのかと。
女子会とかやって、気楽に女子だけで盛り上がっているのかと。
でも、ちがうのか。
もちろん、「撫で撫で」の主人公たちはアラフォーなので、いわゆる若者(20代とか)とも違うのだろうが、
それでも自分より年下の世代だから、もっと男から自由になっていてほしかった。
彼女たちの一喜一憂は男によって決まるのだ。
彼女たちにとって、人生とは男なのである。
専業主婦の女性は子供がほしくてしかたない。
しかし、なんで?なんでそんなに「結婚して子供を持つ」っていうスタンダード(とされているもの…すでにスタンダードじゃないけど)にこだわるの?
そして、もう一人の女子。
東大出の売れないミュージシャン・ニートとのずるずるした関係。でも、その男を切れないし、その男との結婚を望んでいたりする。その次に知りあう23歳の男。こいつともつい、うっすら「結婚」を考えてしまう。
ええ!!そんなに!
今でも、そんなに、「子供を持つ」とか「結婚」ってタームはそれほど魅力的で、女性をしばりつけているの?
その両方に必要なのは、「男」である。
つまり、彼女たちの最大の関心事は、「まだ、男のなのか?」ということ。
それがちょっと残念というか、悲しいというか。
どっかで自分より下の世代はもっと自由になって、結婚や子供や男は、人生のなかで考えないといけないテーマの一つではあるけど、最大の関心事でもファーストプライオリティでもない…ってなっていてほしかった。
どっかでそういう憧れがあった。
もう、「飢え」の記憶は克服したのかと。
70年代に世界的ベストセラーになった、アメリカの女性作家・エリカ・ジョングの小説「飛ぶのが怖い」にこういう一説がある。
男の問題は、男である。
女の問題も、男である。
…
もしかして、時代はちっとも変わってないの?
そういうことを思いながら、舞台の上で、その渦中にいる、必死の彼女たちを見ていた。
東大出のアーティスト系ニートのダメ男(岩瀬亮さん演じる)が、あまりにも既視感あって、(つまり、いたいた、こういう奴って意味)、痛々しかった。
そして、そういう男にひっぱられてしまう、優しい女とダメだけど、こういう奴の魅力もわかる…って気がして、ジリジリしながら見てた。岩瀬さん、はまり役!
なんか、根本から、この負のスパイラルから抜ける爆弾が見たかった。
それとも、そんなの、やっぱりないのかな?