山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

象徴としてのつきたてモチ

ロンドンでお正月を迎え、特別なこともなかったんだけど、ツイッターを見ていると、「こんなお雑煮を食べた」「うちの雑煮は白みそでした」というお雑煮ツイートが続き、猛烈にお雑煮が食べたくなった。

さらに、「つきたてモチ」に関するツイートもあり、ついでに、「つきたてモチ」のフォトも見てしまったりして、もはや、ただのモチではなく、つきたてモチがものすごく食べたい。

お餅はもともと好きだけど、いつものお正月だって、つきたてモチなんて食べたことがなく、おそらく、人生でつきたてモチを食べたことなんて、数回しかない。

でも、海外で夢見ると、つきたてモチがものすごーく魅力的に思えてきて、あんなおいしいものは他にない、なんて思ったりする。

でも、それって、海外にいて、かなわないことがわかっているからだよね。

手の届かないものはより魅力的に思え、より自分をひきつける。

このことから、海外にいると、過剰に日本的なものを欲するようになり、それは日本にいたときにはしなかったようなことだったりする。

着物っていいなーとか、富士山はきれいだとか(古い)、秋葉原はすごい…とか。

そんなわけで、今、日本に戻ってきたけど、つきたてモチを食べる機会も、どうやって買ったらいいのかもわからない。実際は、ロンドンにいるのとそんなに変わらない。

けど、食べたい…

この欲望だけが肥大して残ってしまった。

餅つき機を買おうかと検討しているほど…(バカなのか)

モチのことはともかく、このように動機というのは、「絶対叶わない」ところから始まったもののほうが強いのではないか、とふと思った次第です。

これはなにもモチに限らないよね。

私の個人的な印象によると、思春期にモテなかったひとは、その後、いろいろ成功して、モテるようになってもなかなか満足しない。

年をとっても、「美人、美人」と騒ぐ男性は、たいてい、10代のころ、悲惨な状態だった場合が多い。

今の若いひとを見ても思うけど、幼いころから「恋愛」やら「つきあう」ことへのハードルが低いと、それが「普通」のことになり、私たちの時代より、「恋愛」に対する渇望が低くなる。

「それほどのものですか?」という感じ。

私の親の世代は、戦争などがあり、「食べ物」に対する欲求が強かったように思う。

10代のころに満足においしいものを食べられなかったという記憶は、その後日本が豊かになって、それこそ、世界中の食べ物が余るほど食べられるようになったというのに、それでも、どこか、「食べること」にガツガツしていたように思う。

ツイッターで誰かがつぶやいていたけど、その時代に足りないものを、若者はほしがるって。

だから、車とかもうほしくない。車はもともとあったから。

もともとないもの…それが、人を助けることだったり、つながりだったり、思いやりだったりするらしい。

そういう「絆」的なものを描いた小説や映画が受けて、今ないからこそ、「なんだかすっごくいいものらしい」と思えるんじゃないか。

これもツイッターで誰かが言ってたけど、「今、みんなが求めている、絆とかつながりって、戦後をかけてずっと嫌ってきた、日本の全体主義のことじゃありませんか?」って。

そうだよねー。

田舎の密な付き合いがいやで都会に出てきて、一人暮らしを選んだんでしょう。

助け合わないとできない農業や漁業が面倒で、サラリーマンに憧れたんでしょう。

…というわけで、どっちも否定してないんですが、欲望とは、求められないとわかったとたんに強くなるものだ…ということを、つきたてモチを通じて、再認識したので、それを書いてみました。

大丈夫です。モチはもう、買ってきて食べましたから…笑。