山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

「時代と寝る」メディアみたいな…

久しぶりにテレビを見たら、テンションが高くて、ちょっとひいた。

最近はなかなか、オンエアをそのまま見ることがなくなっていたんだけど、疲れて帰って来て、なにげなく深夜の番組を見たら、疲れた。

テレビより、ネットにつながっている時間のほうがどんどん長くなり、主たるメディアがネットになってしまった今、久しぶりに見たテレビは、ハイテンション、情報過多、展開早すぎ…と、ついていくのがたいへんになっていた。

年をとったせい?…ともいえるけど、そればかりじゃないと思う。

インターネットは、中身は広大で無限大とも言えるけど、どこへ行くか、何をするか、どれだけそこにいるかは、全部、自分で「選ぶ」ことができる。

読みたいニュースをゆっくり読んでもいいし、関心のないテーマはさわりもせずに、スルーできる。

じっくり読んで立ち止まることも、途中まで見て、保存して、別の機会にあらためて見ることもできる。

感じたことを書くことができるし、もっと詳しく調べることもできるのだ。

思えば、いつも、自分が主体になれるのだ。

ところがテレビはそうじゃない。完成度が高く、親切で、視聴者思いだけど、一方で、とても独善的でもある。

こっちが選べるのはせいぜいチャンネルだけで、それ以外は、すべて、テレビのお任せだ。その流れを変えることも止めることも、意見することもできない。気に入らなければ、スイッチをオフにするしかない。

いや、自分もテレビを作っているし、そのおかげでご飯を食べてこられたのだけど、ネット慣れした今になると、テレビの過剰さに結構、驚くのだ。

ネットのほうが、メディアとしては最先端なんだけど、そのありようは、案外、古典的な気がする。

ネットは本に似ているし、いくら無限大にサイトがあってもつながれる数が限られていて、それが、「好み」と「一時の好奇心」「仕事上の必要」などに支えられているという意味でも、現実の人間関係に案外近い。

テレビは、こちらが準備してなくても、好きじゃなくても、調べる気がなくても、一方的にだーっと情報を流してくるのだ。しかもその密度が濃い。

自分も作っていてわかるけど、テレビってそれなりに完成度が高いんだよね。ネットだとそうでもないものが結構あるけど、テレビは、プロフェッショナルが集まって、必死に作っているからどの番組も「濃い」のだ。

それともうひとつ。

たまたま自分が見てしまった番組がその感を強くさせたんだけど、テレビに出ているひとというのは、特権的な人なのだ。

普通のひとはなかなか出ることができない。いや、昔に比べたら、テレビに出るなんて、ハードルの低いことになったし、特別な人でなくても、出る場合も多い。けど、お笑い芸人や俳優さんなど、やっぱり、「特別なひと」が出ている場合が多い。

そんな当たり前のことを久しぶりに見せつけられた気がした。

たまたま見てしまった番組に、ものすごーく「権威」の匂いをまき散らしている人が出ていて、その威張りぶりにびっくりしてしまったのだ。わー見たくないもの見てしまった…という感じ。

しかもその番組では、その権威を振りかざすひとを、あえて奉るような作りになっていて、それもイヤだった。その威張りっぷりさえも番組にしようとしている意図はわかったけど、そこまでして、作らなくていいじゃないか…と思った。

その姿勢にある種のテレビの現場の意地汚さを見てしまった。

権威をふりかざす振る舞いも、それからですら、なにかをいただこうとする姿勢もとてもイヤだった。

番組名もその時出ていたひとも書かないけどね。

というわけで、テレビというメディアが担ってきたものが、確実に終わりに近づいているのを実感してしまった。

ブランドものより、ユニクロやギャップなどの、手頃な価格で、着やすくて、日常的なものが主流になっているのと似て、「特権的なひと」だけが、発言するテレビより、誰でも言いたいことが簡単に言えるネットメディアの方が、より、時代にマッチしているんだと思う。

好きな言葉じゃないけど、「時代と寝る」みたいな言い方すると、テレビが時代と寝ていたときは終わったんだな。

そんなことを思ってしまいました。

自分もつくっていていうのは、なんですけれどもね。

それを自覚してやってゆこうと思います。

なにも時代からはずれたからって、それをやめるということではないのでね。

当然、映画も本も時代の先端じゃないけど、好きな分野は好きですもの。