山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

「ニッポンのジレンマ」とまとまらない考え。

ツイッターやfacebookに細かく書いてるせいで、なかなかブログにやってこられなくなった。

両者の手軽さゆえ、思いつきを書いてるうちに、ブログはちゃんと考えて書かないといけないような、勝手な縛りが生まれている。へんだ。前は思いつきでブログ書いてたのに。

元旦にやってた、「にっぽんのジレンマ」という、討論番組のことが気になって、その感想を。

出演者のひとりが、昨年、経済番組「オイコノミア」でご一緒にした、安藤至大先生だったので、何気なく見始めた。

テーマは「格差社会と働き方」みたいであった。

出演者がそれぞれの働き方や自らがどうやって今の仕事を選んだかを語ったりしていた。なかで、安藤先生は、データを用いて、客観情報を出そうとしていて、健闘してらっしゃるなーと思った。

(以下は私の記憶による、それぞれの出演者の発言ですので、あくまでそのような主旨であったと思うとして書いております。記憶に間違いがあったらごめんなさい)。

木暮さんという経済ジャーナリストの方が、自分がどうして現在の働き方を選んだかを説明した。マルクスの資本論を読んで、労働者になって搾取されるのはイヤだから、でもその前に会社に入って、資本家のやりかたをみておこうと思ったんだ…みたいなことを話した。

あーなるほど。なんとなくわかるなーと思った。

ら。

猪子さんというITの会社を経営する人が結構即座に否定的な意見を言った。彼は、大企業に入ろう、みたいな考え方そのものがつまらないと思ったので、自分で仕事始めたそうだ。ITは、まだ、未知の分野だから、二流でも一流の仕事ができたのだ、とも。

これはこれでかっこいいなーと思ったし、だいたい、この方は見た目もイケメンで、押し出しが強く、知性にも才能にも恵まれていそうで、話も面白かった。特別な星の下に生まれた感じがして。

でも、一方で、木暮さんの気持ちもわかるよなーとしみじみ思った。この方のほうが気弱そうだし、だからこその戦略だったんだろう。

途中、安藤先生が、「ここに出演してるだけで、ある種の成功者なんだから」みたいなことを言ったら、猪子さんは、「全然、成功してない。だって、世界を変えてないもん」みたいなことを言ってて、それも面白かった。

「成功」のとらえ方のちがいが。

格差社会をどうするか、というテーマで話し合われていて、でも、安藤先生のいうように、出演者はみんな、格差の上の方の人たちだから、どっか、机上の空論っぽかった。

机上の空論であったとしても、それがないように振る舞うよりは、話題としてあげるだけでも意味はあるかもしれない。けどそれも、上位のものたちの息抜きでしかないのか…?

これが「女性差別をどうするか」というテーマなのに、登壇者はみんな男性だったら違和感を持つだろう。おまえらに何がわかるんだよ!って、私なら思う。

たぶん、格差の下位にいると思うひとは、全然、見てられなかったのでは。

ずっと前、テレビ番組の企画会議で、「日本で一番普通のひとを探せ」みたいなのをやったらどうかって話になったことがある。

テレビはよく、「特別なひと」を取り上げる。成功者とかお金持ちとか変わったひととか。それにほとほと飽きてきたから、このような発想が生まれたのだろう。

平均年収、平均的家族構成、などなど、すべての平均値を持っているひと(家族)を探し出して、登場させる…という企画であった。が、しかし、「そんなひとが見つかったとして、そのあとどうするんだ」ってことになって、それじゃ、つまらん、として却下された。

確かにそうだけど、案外、やっぱり面白いかもしれないと今更思った。というのが、日頃、人々が「普通」だと思っていることがすでに「普通」ではなくなっている可能性があるからだ。

普通とはなにをさすのか…。

漠然と思い描く、普通のひとって、サラリーマンで結婚してて子供いて…みたいな感じだけど、もはやそれは全然、普通ではないよね。

ツイッターで見かけた「ナイス!」と思った言葉に、「仕事と私とどっちが大事なの?と聞いてくれる彼女も、そもそも、仕事もない」っていうのがあった。

「ニッポンのジレンマ」から離れてしまいました。

ただ、これまで「普通」だと思っていた、サラリーマン、終身雇用、家族養う、みたいなのがちっとも普通じゃありませんよってことだけは、ようやく、浸透してきているのかもしれない。

自分など、ずっと、普通から遠く離れて生きてしまったので、実感がうすいが。

番組のなかで、「いろんな働き方があるってことを理解してほしい、ここにいる人たちみたいなやり方もあるから…」って言ってたけど、そんなん、わりとすでにみんな、知ってないか?と思ったなー。

というか、テレビはそのような「普通の道筋じゃないけど、サクセスしたひと」が大好きなので、しょっちゅう、目にするものだろう。

それぞれが自分の特殊な働き方を披露して、自分の好きにやったらええ、って結論って、一見、もっともだけど、最近、覚えたてゲーム理論のひとつに、個々にとって最善の戦略が、社会全体で見たときはそうならないことがある、ってことだ。

それと、安藤先生も言ってたけど、やっぱり、保証や法律で守るのは必要だと思った。特に弱い立場のひとに対しては必要だよねー。

強いひとは好きにやったらいいんです。転んでもそれを楽しめるならそれでいい。

でも、この世界にはそうじゃないひともいるってことを想像しないといけないと思う。

自分はたまたま、うまく生き延びたという実感はある。でもたまたまだ。

自分は運動能力が著しく劣っている。小学校の頃から体育は五段階評価でずっと「2」だった。

普通のひとのように、走ったり、踊ったりができない。体操をするとふざけている、とよく言われた。

もし、この世界が運動能力が一番、大事にされる世界だったら、完全、自分、落ちこぼれて、さまよったと思う。たまたま自分のスキルが生かせる分野が結構あったので、救われた。

ので、時々、体育できない自分を思い出すことにしている。

弱いものが弱いままで、生きられる世界をつくんなきゃいけないんです、と上野千鶴子先生も仰っていた。

あ、考え、まとまらず。

だんだん、自分の思考もツイッターみたいに140字くらいしか続かなくなっているのかな。

これ、やばいのかな。

ラストに犬たちから、新年のご挨拶でございます。



でも、犬が無駄に殺されるのは、普通ではないことだけは確かだ。自分のわかる範囲で世界を変えていけるようにしたいです。