山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

ブス会「女のみち 2012 再演」

昨日は、ブス会「女のみち」を見てきた。

池袋芸術劇場に2日連続で通ってしまった。(城山羊の会も芸術劇場だったのだ)

ブス会の芝居は、数年前から注目して、リトルモアの地下の小さい劇場で上演されていた頃から見続けて来た。

なかでもこの、「女のみち」は傑作だと思う。

AV(=アダルトビデオ)の撮影現場の一日を女優たちの会話で、つないでいく。

AVだから、最初はぎょっとするような言葉の連発で、全然違う世界の話のように感じる。

が、出てくる単語の過激さとは裏腹に、そこに描かれているのは、ギリギリの女性たちの、心の声みたいなものだ。

アイドルからAV女優に転じたコ、

かつてはカリスマAV女優と呼ばれもてはやされたが、今は、年を重ね、シングルマザーとなり、生活のために続けているひと、

巨乳や潮吹きというスペックを武器に生き抜いているひと、

エロに思想を持ち、貫こうとしているひと、

そして、結婚して引退したが、結局戻って来て、ロリコンから痴女へと路線を変えてもこの世界で生きていこうとするひと。

誰もが普通の社会にもいるタイプの女性たちである。

それぞれがそれぞれに、痛々しい。

でも、この痛々しさは、彼女たちがAV女優という性を売る職業だからだろうか。

もちろん、それもある。いつまでも、男の欲望に奉仕することが仕事になっている世界だからだ。

そんな世界、とっとと逃げ出せ、ということはできる。

けど、戻って来たAV女優がそうであるように、そういう場所で生きることが楽な人だっているのだ。

彼女たちは、「性を売り物にしている」「搾取されている」…みたいに言うこともできるんだけど、彼女たちはそんなこと、乗り越えて、もっとずっと冷めた目をして、エロを見ている。

そこには、彼女たちの本当の「エロ」はない。

仕事の道具、お金を稼ぐためのツールとしての「エロ」があるだけ。

だから、裸を見せようと、潮吹きしようと、それが単なる「ツール」に過ぎないから、そのことで、彼女たちは傷つくことはない。

その荒野のような場所で、明るく冗談をいいながら、表面上は友情をはぐくみつつ、生きている。

…でも、本当かな。

ツールに過ぎないと言い切るには、「性」はあまりにも大きいような気がする。

上野千鶴子さんに近著をいただいた。

「セクシャリティをことばにする」(青土社)の帯には「性的な自由ほど大事なものはない」と書いてある。

彼女たちが、男性の要求する「エロ」を仕方ないものと受け止め、自分でもそれを楽しめるように飼い慣らす姿は、結局のところ、AV業界に限らず、広く、女性たちがみんな受け入れていることでもある。

そのことが、AV業界という、いわば、性を売り物にする最前線で生きる女性たちの姿を通して、くっきり現れてくるのだ。

(多かれ少なかれ、女性である以上は、どこかで性を売り物にするしかないから)

だから、最初はAVの撮影現場の過激さに戸惑っていても、ラストにはなぜか彼女たちに共感して、寄り添いたくなる。

あなたたちは自分なんだって思えてくる。

ラストにかかる曲がまた、いいんだ。

女の子のいろんな名前を延々と呼び続ける、JPOP。

みんな知っているよね、ここにいる女の子たちの痛みと強さと笑いを。

そして、彼女たちが自分自身だってことを。

そう、言われている気がした。