山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「人生フルーツ」

ロングランを続けている映画「人生フルーツ」昨日、見て来ました。

愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンの一角で、300坪の敷地に平屋の自宅を建て、庭には野菜や果物を育て、
なんでも手作りしている、90歳と87歳のご夫婦のドキュメンタリーです。

いろんな面でたいへん刺激を受けました。

ドキュメンタリーを考える上で今さら思ったことと

主人公たちの魅力と

そして、これは個人的な話だけど、私の父も津端さんとほぼ同世代の建築家であり、アントニン・レーモンドに師事した建築家の弟子であったからです。

なので、3つの点から揺さぶられました。

まずは、主人公の建築家・津端修一さんとその妻・英子さんがあまりに魅力的で打ちのめされました。

英子さんのあふれるような笑顔に、特にドラマチックな展開がなくても、しみじみと魅了され、見つめることができる。

彼女の充実した人生を映すかのように、庭にはさくらんぼや夏みかんや栗などが、たっぷり実っている。

水浴びに来る小鳥や、自家製の干物を狙う野良猫。

生きものたちの憩いの場所でもある。

そして、リビングの大きなテーブルには、英子さん手作りのていねいに作られた料理が並ぶ。

絵に描いたような美しい暮らし。

しかし、これはそんな美しい「スローライフ」の物語ではないことに、映画を見るうちに気づいていく。

建築家の修一さんは、日本住宅公団の建築家で、阿佐ヶ谷住宅や多摩平団地などの都市計画に関わってきたひと。

現在暮らす、高蔵寺ニュータウンの計画にも関わり、それを機に、ニュータウンの一角に自ら300坪の土地を買い、家を建て、暮らし始める。

戦後の団地作りの、経済優先のプランに疑問を持ち、禿げ山に木々を植え、雑木林を作り、自分の目指すプランを暮らしながら、実践してきた人だ。

いやー素晴らしい。

住宅公団のサラリーマンに留まらず、自分の理想を実践したのである。

この部分に一番、胸を打たれました。

自分の信じることを生涯貫くって、並大抵のことではないと思うし、生活全部かかってくるから。

理想を語るだけでなく、住んで実践しているところが、ホントに素晴らしいと思った。

建築って「家」を建てることだし、「家」は人が暮らすためのものだから、理想を語るだけじゃ辿り着けない。

これが、絵画や映画や文学とは違う、実践芸術みたいなところがある。

どんなにステキなデザインでも、人が住めなければ、「家」として失格になる。

理想の家を建て、暮らすこと。

そのような人生は一緒に歩いてくれる、妻がいなければできなかったと思う。

夫の理想を信じて付いていった英子さんの存在は大きいし、彼女も一緒に実現したのだ。

年をとってからの気ままな「田舎暮らし」のようなものではなく、生涯かけての挑戦というか、作品だったんだなあと思えた。

生きて住んでこその「家」だと。

その人生を写し撮ったような映画だった。

このように、ドキュメンタリーは、対象が素晴らしければ、素晴らしく面白くなるから、作品の魅力は主人公の魅力に他ならない。

が。

とすれば、津端さんご夫妻のように、面白い人物、魅力的な人物を映せば、面白い作品ができることになるが、やはり、それだけじゃない。

「撮る側」の問題がある。

見ているひとは、「撮る側」がいることを忘れるほうがいい。

まるで自分の視点のように二人の世界を見るほうがいい。

でも、それは完全な二人の世界ではなく、そこには、それを「撮る」人々がいたのである。

(通常、私はこっち側に属する)。

「撮る」人々は、面白く魅力的な人物から「撮ること」を許可してもらって、信頼してもらわなくては進めない。

この信頼を作れるかどうかがドキュメンタリーを撮るときにかなり重要だったりする。

けれども、まあ、それは普通に見るひとたちには気づかれなくてもよいとは思う。

次に、どの切り口で撮って見せるか、という視点。

津端さんご夫妻を切り取るとき、自宅の庭で野菜や果物を育て、ベーコンを手作りし、豊かな食生活を送っている「スローライフ」のご夫婦というとらえ方もあるだろうし、90歳と87歳という高齢の二人暮らしの側面もあるし、戦後の日本の団地を設計した人物としての描き方もある。

いろんな角度から描くことのできる人物たちを、作り手が「この部分を中心に見せていこう」と決意しないといけない。

この「角度」を発見することもドキュメンタリーを撮る側にかかってくるので、「信頼」と「角度」がとても重要なのだ。

時々、この2つを飛ばして、作品を作ろうとするひとがいて、傷つく。

以前、作ったドキュメンタリーのすぐあと、ほぼ同じ内容で取材した雑誌の記事が出た。

ほぼ同じ構成のテレビ番組も出現した。

登場人物は一般人であるから、取材に来たら断ることもままならず、こちらとおなじように撮り、つなげることが難しくない。

何年も通って見つけた視点をするりと盗む。

「ひどいなあ」とは思う。

思うけど、マネしたくなるような内容だったんだよね、と言い聞かせ、また、その人物の魅力が広がるならいいやと思い直すことにしている。

(けど、人と同じ視点で描くのではなく、自分なりにその対象の魅力を見つけることが楽しみのはずなんだけどね…)

話がそれた。

で、3つめの話題。

父のことを思い出した。

津端氏の佇まいにどことなく、父の面影を見たからである。

同じくレイモンドさんに師事して、洋風建築なのに、障子を生かすとか、平屋とか、子供のころ、父の関係者の住宅でよく見た光景だった。

ジャガイモ好きで、コロッケが好物というところも似ていて、じんわりした。

しかし、父は津端氏ほどの己の理想を貫く力を持たず、祖父からもらった洋風建築の家に生涯暮らした。

自分の理想の家を建てて住んで見たかったかもしれないけど、叶わなかった。

それについては聞いたことがなかったから、「理想」などなかったかもしれない。

その家を経済に屈して売買せず、文化遺産として残し抜いたことを誉れに思おう。

残ってますよ、と伝えよう。

(実家は明治時代に建てられた洋風建築の家で、著名な画家のアトリエでもあり、それが現在文化財として残っている。公園とともに。)

……というようなわけで、非常に心を揺らしながら、「人生フルーツ」を見ました。

本当は、「ゆきゆきて神軍」を見に行ったのだけど、満席で入れず、前から気になっていた「人生フルーツ」に出かけたのは、この時期ならでなの、遠くにいったひとたちからの導きであったかもしれません。

…なんて。