山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

春のけはいと長い散歩

かつては、水ぬるむ頃なんていって、春の始まりを感じたものだ。

何気なくひねった蛇口から、手にあたる水に、それまでの手を引っ込めたくなるような冷たさではなく、かすかなやわらかさを感じた時、ああ、春が来たんだな、なんて思う。

ところが、今ではいつでもちょうど良い温度のお湯が出てくるし、室内も程よい気温に調整されているので、「ひやっ」とか「ほっ」と思うことは少なくなった。
だからって文明を批判するつもりはないし、というより、恩恵に感謝しているし、そういう感覚が多少減っても、春が来るのは嬉しいものだ。

幸いなことに、私は今のところ花粉症とは無縁なため、鼻がグズグズすることで春の訪れを感じる、ということもない。

夜中に鳴く猫の声や、テレビの梅が咲いたというニュース、カーテンごしの日差しの明るさに、少しずつ季節が動いていることを知る。
こうして、またあたらしい春が来る。

何度でもうれしいよな、春って。
そこに何がなくても、さくらを誰と見ようと思ってなくても、春の先に夏があると思うとますます嬉しい。
(海に行ける!)

そして、自分も生き物だから、普段はまったく感じられない生命力がにわかに甦ってくるのを感じる。身体の根っこのところで、走り出したいような、飛び跳ねたいような活力みたいなものが、湧いているような気がする。
そろそろ重いコートをやめて、きれいな色の薄い服を着て、太陽の集まるところへ行こうぜって身体が求めているような気がする。

相変わらず、自分の主人は「脳」だと思っているから、主人はのっそり、なかなか腰をあげないけど、手足はじたばた、どこかへ行きたがってる。

あしたはどこかへ、長い散歩にいこうかな。