山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

永遠の十七歳で。

今日は、「セイジ」という小説(辻内智貴著)を読んだ。前に朝日新聞で、尊敬する編集者で作家でもある、藤本由香里さんがほめていたので、ずっと気になっていた。が、なんとなく買いそびれていて、ようやく購入した。

暑い午後を使って読んだ。そっか。こういうお話だったのか。少し意外な気がした。藤本さんがほめるということから、もっとちがう世界を想像していた。ちがう世界っていうのがじゃあ、なんなのかといえば、説明できないけれど。

著者は43歳のときにこの小説を書いている。内容は、大学生の主人公が、自転車で旅をして、偶然知り合った「セイジ」という男性とその周囲で起こった出来事について、それから10年後に回想するといったものだ。この主人公の独白の調子が独特で魅力的だ。いかにも多感な青春まっただなかのひとの感じ。けど、書いているとき、作者はすでに40代なわけだ。

えっと何が言いたいかというと、例えば、この小説で語られるセイジというひとも、30代の半ばくらいなのに、いつまでたっても社会となじむことができずに、まるで10代の青年のように、小さなことにこだわりながら暮らしている。感受性の強さゆえ、周囲と軋轢が起こったりもする。さらに、この繊細な心の持ち主はもっととんでもない事件を起こすのだけど、ここで感じたのは、いくつになっても、10代の頃のような。繊細さ、感じやすさ、正義感みたいなものから抜けられないひとがいるということ。

たぶん、著者がきっとそういうひとであったから、40代になっても、そのままの気持ちを丁寧に書くことができるのだろうと思った。小説の読者は10代、20代のひとが主だ。なぜかといえば、その年代は、やはりいろいろ迷ったり、不安定だったりするからでそのために指針がほしいわけだ。

が、だんだん大人になると小説がいらなくなる。小説に書いてあるような、ささいな心の揺れなどに関わっている暇がなくなるし、そういう気持ちを無視したほうが、社会では生きやすいからだ。

が、なかにはいつまでも、そういうふうには割り切れないひとがいる。そういうひとたちが、年を重ねても、ずるくもすばしこくもなれなくて、小説を書いたりするのではないかと思うのだった。

「セイジ」に収録されているもう一編「竜二」もまた、そういう大人になりきれないひとだし、彼は実際、小説を一冊だけ書いているのだ。

なんだかやっかいなひとたちである。いつまでもささいなことにこだわって、生きにくいよねって言い合って、普通の目標に満足することができないで、いじいじしているひとたちだ。

が、そういうひとたちってとてもいとおしいのだった。そして、いつまでも10代の繊細さをもっているからこそ、いくつになっても、その時の気持ちが書けるのだなあと思った。
生きにくい、生きるの面倒って気持ち、ものすごくわかるから。