山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ただのセックスじゃない。

ジョン・アービング原作「ドア・イン・ザ・フロア」(小説「未亡人の一年)を見ました。
原作もそうでしたが、アービングらしい、ひやっとするセリフや設定はいろいろあるにはある。

例えば、一番すごいな、と思ったのは、6歳の少女?ルースがある夜、母親の寝室に入った時のこと。
ルースは、「キャーッ!」と叫ぶ。
なぜなら、そこでは、母親と父親(作家)の助手(アルバイトの高校生)が全裸でセックスしていたから。そんな姿を娘に見られても、母親は動じることなく、「ルース、大丈夫よ、ただのママとエディ(高校生の名前)じゃない」と平然という。

原作では、これがファーストシーンだけど、映画は小説とは違う時間軸なので、このシーンはずいぶん、あとに出てきた。ま、それはともかく、このシーンっていうのは、「浮気を幼い娘に見られてもなんとも思わない、壊れた母親」を表現しているのか、そもそも、セックスなんてどれもただのセックスでしかないでしょ、ってことを表現しているのかってことになるけど、私は後者だと思うし、後者であってほしいし、アービングってそういう風に考える作家だと思う。

こういうシーンはさすがだと思うのだけど、原作もそうだけど、完成度はやっぱり低いように思う。この最初のシーンを書きたかったから、書いちゃった、って感じがする。17歳と15歳の若さで交通事故死する二人の息子の思い出にしても、「ふたりの写真がたくさん残っている」という状況を描きたくて、背景を考えたような気がする。

もちろん、創作ってすべからく、これを言いたいからこういうシーンを作る、という過程を経るものだけど、シーンの狙いがばれちゃうのは失敗なんだと思う。

フィクションだから、考えつくされたものなのに、どうにも真実のように見えてしまい、映画だったことを忘れて見ている(小説も)感じにならないと、成功とは言えないのだろうな。

それにしても、美しいロケ地だった。人気のない海、広々とした庭、清潔で住みやすそうな広い家。
最後のロールをみたら、ハンプトンビーチみたいだった。ふむ、成功した作家はハンプトンに住むのね。 そんなことを感心している場合じゃなくて、やはり、ばらばらな映画だった。なぜ、そうなってしまったかというと、誰に感情移入して見ていいからわからないから。17歳の少年の、年上の人妻へ寄せる思いにのろうと思えばのれるけど、それじゃあ、あんまり陳腐だし、だいたい、そういうふうに出来ていない。

この映画には、わかりやすい愛の完成形はひとつもでてこない。性愛は出て来るけど。原作を読んでいてある程度の筋がわかっているし、この映画では描かれなくてもそれから30年(だったか)後のこの家族とエディのことも知っているのだけど、もしそうじゃないひとは、「いったい何を描きたいの?」ってすごくわかりにくい映画だったと思う。

最後まで、没入できなかった。残念。

昨夜読んだ、「魂萌え!」のがずっと面白かった。が、フトあの内容でどうして、タイトルが『魂萌え!」なのか、激しくわかんない。「萌え」という言葉が流行ったから販売促進か。

とりあえず、今夜はここで。