山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

作品における若さについて。

ある必要があって、ここ数週間で、日本映画をたくさん見た。

見るだけじゃなくて、映画や映像のプロと言われるひとたちとさまざまな意見を交わした。それはそれでとても面白い経験だった。自分にとってはとても面白いものが、ほかのひとには悪評だったりと当然のことだけど、ひとの評価はさまざまだ。でも、プロと言われるひとたちだけあって、最後はそれほど意見のずれはなかった。もちろん、賛否両論に大きく別れることもあったけど、そういう作品は問題作ってことで、やはり力(ある側から見れば+の逆から見ればマイナスの)があるということなんだろう。

なかで、「若さ」ということについて考えた。

ある映像のベテランの方が、非常に若い監督の作品に対して、「若いひとが撮ったというので、期待して見たけれど、案外おじさんっぽい出来でがっかりでした」と言った。わたしも同じ作品を見て、同じようなことを感じた。ただ、私はその作者の年齢を知らなかったので、「おじさんがおじさんっぽい作品を撮った」と思っていたのだった。一方で、本当のおじさん、というか年齢の高いひとが撮った作品で、やっぱりおじさんっぽいものもあったし、若いひとが撮ったらしい下手でもみずみずしい作品もあった。

そこで、ハタと考えるのだった。作品における「若さ」ってなによ?

結局のところ、作者の実年齢ってあんまり関係ないのだなーということ。当たり前と言えば当たり前なんだけど、ややもすると、作者の年齢によって判断されることもある。「こんな若いコがこんなことを書いた」というのは、宣伝文句になりうる。同等に、「こんな年寄りがこんなもんを撮って頑張っている」という売り方もある。

でも、これらは全部、宣伝の話であって、本質の話じゃない。自分は宣伝の側のひとじゃないし、一緒に映画を見た人たちも、そこらへんは当然のこととして、作品のもつ力に対して、とても忠実に判断していた。肉体は日々老いるし、ある日、死んだりもする。でも、作品はいつでも、新鮮なものを作りうるし、存在しつづけることができるんだなーと思った。縄文時代に作られた壺が、今、見ても美しいように、作者不明の神話に今でも感服させられるように、作者は消えても、芸術は若いままで、生き続ける。これって、すごいことだなー、幸せなことだなーと思った。

ということで、作品のなかで、ひとはいつでも若返ることができる。

外見もそうだったら、いいのに?(笑)。

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あ、そうだ、「恋愛って仕事なのか」の続編を書こうと思っていたのだった。それは明日にしようっと。