山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

「毒婦」読んだ!



『すべては援助交際から始まった…
「毒婦」北原みのり著((朝日新聞社)を読んで)』

 「毒婦」とは、今年の4月13日に死刑判決を受けた木嶋佳苗容疑者のことである。インターネットで知りあった複数の男性から一億円以上のお金を受け取り、そのうち3名を殺害したとされる女性。この木嶋容疑者の100日間に及ぶ裁判の傍聴記である。
 著者の北原みのりさんは、気鋭のフェミニストであり、「アンアンのセックスできれいになれた?」なども面白く読んだ。北原さんの、最後まで佳苗容疑者を理解しようとする真摯で切実な態度と冷静なレポートから多くのことを知った。
 実は、この事件が発覚した頃(2009年)、私も一応は興味を持ったけど、それほど強いものではなかった。「あんまりキレイじゃないのに、よくもここまでお金を集められたものだ」という多くのひとが感じたと同じような浅いものだった。同じ女性がらみの事件でも東電OL事件の方が衝撃は強かった。

漠然と、「お金ほしさに男性をだまして殺す女性のお話」と解釈して、彼女がさほど美人でないことをのぞけば、よくある話のように思えた。お金がほしくて、女を(セックスを)武器にして男をだます…これはある種の女性が繰り返しやってきた犯罪のひとつだからだ。

 が。

この本を読んで少し見方が変わった。もちろん、女を武器に男をだましてお金を取っていたのは同じだけど、その始まりが90年代にあったことと、佳苗容疑者が上京してほどなく、当時マスコミを賑わしていた「援助交際」にはまっていくことを知るにつけて、そうか、この事件の発端は「援助交際」にあるんだと気づいたから。
 佳苗容疑者は北海道の別海町の出身。高校を出て、93年に東京にやってくる。まともな仕事をしていたのは最初の一年くらいで、後は、デートクラブで働いたり、インターネットで知りあった男性から金銭的援助を受けたり、要するに売春を生業としていた。つまり、この女性は、この事件で逮捕されるまでの15年以上をずっと、体を売って生計を立てていたのだ。冷静に考えるとちょっとびっくりする。15年。もはやプロの売春婦である。

 でも、プロの売春婦といった言葉がひきおこすようなものがこの人にはない。東電OLが渋谷の円山町で立って客引きしていたのとは対照的に、料理教室に通ったり、ブログを書いたり、悲壮感がなく、楽しそうにやっていたように思える。

売春婦、娼婦と言えば、映画やドラマのなかで見かける、髪を染めて、肌を露出した下着のような服を着て、酒やクスリに溺れ、ヒモにお金をむしり取られている姿を思い浮かべる。そういう女が身をひさぐ。が、すでにそんな時代は終わっていたんじゃないだろうか。

 佳苗容疑者は、相手の男性に料理を作ったり、世話をしたり、性的サービス以外のこともしている。限りなく妻に近い売春婦だ。(だから、結婚詐欺、と言われているんだろうけれども)。でも、ここでふと立ち止まる。限りなく妻に近い売春婦だって?え、じゃあ、そもそも、妻と売春婦の違いってなんだっけ?

 佳苗容疑者のやってきたことは、そんな、ひやっとする現実をつきつける。妻も売春婦もそんなにちがわないんじゃないの?とでも言うように。

なぜ、彼女はそんな道を選んだんだろう。

 ひとつだけ想像のつくことがある。彼女は、93年に東京にやってきた。90年代の東京。そこでは、女が、自分から値段をつけて、自分を売ることが出来る場所だった。それまで多くの人が抱いてきた、売春に対するマイナスイメージを「援助交際」と呼び換えて、払拭することができることになっていた。それを知って、彼女は、我が意を得たのではないだろうか。

「なんだ、私、間違ってなかったんだ…」と。

 上京する前も、佳苗容疑者は、故郷の町で性的な噂が絶えなかったらしいが、東京に来て、はっきりと態度を決めたんじゃないか。狭い町では実現できなかったことが、東京なら好きなだけできる。体を(女性性を)売って生きていけばいいし、それは、なにも自分の尊厳を損なうものではないこと。むしろ、自分を高く売ることこそが、意味のあることのように。

 手前味噌で恐縮ですが、私は自分の小説と映画「すべては海になる」で高校生の頃に援助交際をしていた女の子の10年後を描いた。それは援助交際というものが一過性の流行ではなくて、日本の女性たちのなにかを大きく変えた出来事だと思ったからだ。エンコー以前と以後では、私たちは変わってしまったのだ。

 なにが変わったかって?

 …それは、「底が抜けた」ってこと。

それまで、売春、体を売ることは悪であり、女性なら避けなければならない、最低の出来事であり、取り返しのつかないことであるように、教えられてきたし、振る舞われてきた。

けど、一方で、メデイアや世間を見れば、どこからが売春で、どこからがちがうのかわからないほど、「女」は売り物にされていた。わかりやすい金銭取引がないだけで、女はいつも性的対象物として扱われ、値段をつけられ、値踏みされてきた。そのことに、90年代の女性たちははっきりと気づいてしまったんだ。

そして、その「底の抜けた」女性観に対して、「だったら、自分から売ってやる。だって、私たちに求められているのは結局、ソレなんでしょ」という開き直りみたいなものが生まれた、と私は思ってる。

 そのわかりやすい出来事が援助交際だったんじゃないかと。そして、その延長線上に、この事件もあるんじゃないかと。

 罪悪感なく、気楽に売春できる先に、東電OLの事件とこの事件がある。もちろん、東電OLは被害者だから、一緒くたにするのははばかられるけれども、かつては貧しい女性が必死に食べるための糧を得ていた売春とは違うかたちで、「男に体を売る」ことでお金をもらう…という売春のハードルが極端に下がってしまった。かつては持っていた「禁忌性」は失われた。

 いや、私は、「売春は悪いことです」かつてのように「それをやったらお終いです」というような一方的な解釈に戻ったほうがいいとは全然思ってない。そうじゃなくて、こんなふうに底の抜けた世界で、愛もセックスもお金と交換可能だとわかってしまった世界で、それでもなんとか生き抜く方法がないものかと考えるだけである。

 丁寧な取材と真摯な態度で裁判の傍聴にのぞんだ北原みのりさんの著書により、単なる「そんなにキレイじゃない女性がおかした詐欺および殺人事件」と思っていたものから、事件のそのもの、というより、佳苗容疑者が象徴する女性の闇…というか、ゆらぎに触れたと思った。

愛もセックスもお金と交換可能と開き直ってしまった先には、生きた人間であるはずの男性も「お金を供給する存在」にしか見えなくなってしまったんだろうか。その苦い現実をかみしめている。援助交際が残したモノはまだ、なにも終わっていない。